①神の戒めを愛する

1)神を愛し、神の戒めを愛する

●旧約聖書 詩編119:33-35,97,127(旧p960,4,5)

「主よ、あなたの掟に従う道を示してください。最後までそれを守らせてください。あなたの律法を理解させ、保たせてください。わたしは心を尽くしてそれを守ります。あなたの戒めに従う道にお導き下さい。わたしはその道を愛しています。・・・わたしはあなたの律法をどれほど愛していることでしょう。わたしは絶え間なくそれに心を砕いています。・・・それゆえ、金にまさり純金にまさって、わたしはあなたの戒めを愛します」

「十戒」は、使徒信条・主の祈りとともに、教会の伝統において大切に覚えられてきた三要文のひとつですが、抵抗を覚える方が少なくありません。「戒め」ということの厳しいイメージゆえでしょうか。詩編119篇には、まるで最愛の人に告白するように、「神の戒め・命令・律法を愛します」と繰り返し歌われていますが、そういう信仰は理解不能と言われるかもしれません。でもこの119篇の詩人は、神様のことを深く愛しているから、その戒めも愛しているのです。神様を深く信頼しているから、その戒めに従って生きていくことを望む。ただそれだけなのです。

 

2)救いに対する「感謝の応答」としての善い行い

●ハイデルベルク信仰問答 第86問

問:わたしたちが自分の悲惨さから、自分のいかなる功績にもよらず、恵みによりキリストを通して救われているのならば、なぜわたしたちは善い行いをしなければならないのですか。

答:なぜなら、キリストは、その血によってわたしたちを贖われた後に、 その聖霊によってわたしたちをご自身のかたちへと生まれ変わらせてもくださるからです。それは、わたしたちがその恵みに対して、全生活にわたって神に感謝を表し、この方がわたしたちによって賛美されるためです。

 さらに、わたしたちが自分の信仰をその実によって自ら確かめ、わたしたちの敬虔な歩みによって、わたしたちの隣人をもキリストに導くためです。」

十戒を学ぶ前に、そもそもなぜ私たちは、神の戒めに従って生きていく必要があるのかを考えましょう。それは「救いの条件」ではなく「感謝の応答」です。キリストに結ばれた者は、感謝の人として恵みによって作り変えられるのです。

 

 

②悔い改めの生の道しるべ

1)十戒とは、悔い改めの生を導く道しるべ

●ハイデルベルク信仰問答 第88問

問:人間のまことの悔い改めまたは回心は、いくつのことから成っていますか。

答:二つのことです。すなわち、古い人の死滅と新しい人の復活です。

●ハイデルベルク信仰問答 第89問

問:古い人の死滅とは何ですか。

答:心から罪を嘆き、またそれを憎み避けるようになる、ということです。

●ハイデルベルク信仰問答 第90問

問:新しい人の復活とは何ですか。

答:キリストによって心から神を喜び、また御旨に従ったあらゆる善い行いに心を打ちこんで生きる、ということです。

●新約聖書 ローマ6:1-11(新p281)

「・・・このように、あなたがたも罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」

 

  ハイデルベルク信仰問答では、「十戒」の学びの前に、私たちが善い行いをなすことの意義を教え、キリスト者に不可欠の悔い改め(=方向転換)について教えます。イエス様はわたしたちを、「まことの悔い改め(回心)」へと導いてくれます。破滅へ向かう悪い流れを止めてくださるだけでなく、新しい歩みへと向きを変えさせ、押し出してくださるのです。それは、「古い人の死滅」と「新しい人の復活」という、二つのことで成り立ちます。そして「十戒」とは、その悔い改めの生を導く道しるべなのです。

 

2)悔い改めを全うさせてくださるイエスの赦しと愛

  あの「レ・ミゼラブル」の主人公ジャン・バルジャンの生涯は、悔い改めと回心の生を象徴しています。ミリエル神父に赦され愛されたことで、深く傷つけられていた彼の人生は癒され、怒りと呪いと憎悪に満ちた惨めな生活から、人を愛し助け赦していくという新しい生き方に導かれたのです。イエス様は、まさにそのように、私たちを新しい愛の人として立ち上がらせてくださいます。しかし悔い改めの生は、一朝一夕でなるものではなく、「十戒」を与えられて生きる道は、日ごとに自分の罪を思い知らされる生涯です。でもそういう者を、イエス様は赦し続け愛し続け、悔い改めを全うさせてくださいます。

 

 

③あなたを解放してくださる神

 

1)十戒の序文、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。(出エ20章2節)」 

 

  「十戒」を学ぶのに一番大事なことは、「この戒めを与えてくださった神は、どういう方か」をよく知ることです。言葉をくれた方との人格的関係や、その背景にある物語こそが大切なのです。そして、神はどういう方かを知らせてくれるのが、「十戒の序文」です。この「序文」に、イスラエルの救いの原体験としての「出エジプト」の出来事が示されています。あの時、先祖をエジプトから助けて下さった神が、今も必ず、助け導いて下さると、私たちは信じます。神はいつでも救いの神です。そして「わたしは主、あなたの神」との名乗りには、あなたを決して見捨てはしないとの救いのメッセージが込められています。 

●旧約聖書 イザヤ書43:1-5(旧p1130) 

「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトを身代金とし、クシュとセバをあなたの代償とする。わたしの目にあなたは価高く、尊く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の身代わりとする。恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」 

 

2)救いと解放の神を信頼し、従いついていく 

  この救いの神を信頼する。それゆえに、この神に従いついていくのです。 「十戒」は道しるべと同じです。道しるべというのは、信頼がなければ機能しません。信じているから、指示に従うのです。独り子さえも与えてくださった神が、私の為に与えて下さる戒めだから、私を必ず幸いな人生へと導いてくれるに違いないと信じて、この「十戒」に従い生きるのです。「十戒」を与えてくださった神は、いつでも私たちの救済者であり、罪からの解放者です。「戒め」と向き合うことによる罪の自覚には、痛みが伴いますが、罪からの解放はその気付きに始まります。そこから始まる道は、必ず私たちの幸いに通じています。 

 

 

④第一戒 ただひとりの方を愛する

  

1)第一戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」 

  インスタントで安くて軽い、現代人の宗教心 

  第一戒において求められる、神との深くて重い関係性 

2)わたしたちにとって、「礼拝する(拝む)」とは。 

  日曜日だけでなくて、生き方そのものの問題(ローマ12:1-2) 

  主の栄光のために、わたしの人生をささげる(ウ小教理問1) 

 一対一の人格的関係において、神を愛する。とても重い愛の関係。 

3)第一戒を理解する要。「神との“愛”の関係」 

  神が私たちに重い愛をお求めになるのは、神の方でも、私たちを 

 そういう愛で愛すると決意しておられるから。 

4)神との深くて重い愛の関係を知るためには、ホセア書が最適。 

 預言者ホセアの数奇な生涯を通して示された、「神はどんなに裏切られ 

ても、その民を愛し続ける」というメッセージ。(ホセア3:1-5) 

 主なる神を裏切り続けてきた、私たちの先祖の歴史。エジプトから救い 

出してくださった神を、すぐに忘れてしまい、カナンの偶像の神々へと 傾倒してしまった。(ホセア11:1-2、13:4-6) 

  神はお怒りになった。しかしまた、それでもなお、そういう者たちを 
わたしは愛し続けると、ホセアを通して語られた。 

5)この神を、愛さずにはいられない。 

  この神との重くて深い愛の関係が心に収まるなら、魂は平安を得る。
そういう人は、もう他の神々を頼りにするはずがない・・。 

 

●旧約聖書 ホセア書13:4-6(旧p1418) 

「わたしこそあなたの神、主。エジプトの地からあなたを導き上った。わたしのほかに、神を認めてはならない。わたしのほかに、救いうる者はない。 荒れ野で、乾ききった地で、わたしはあなたを顧みた。養われて、彼らは腹を満たし、満ち足りると、高慢になり、ついには、わたしを忘れた。」 

●旧約聖書 ホセア書11:8-9(旧p1416) 

「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、 お前を引き渡すことができようか。・・・わたしは激しく心動かされ、憐れみに胸を焼かれる。・・・」 

 

 

⑤第二戒 目に見えるものに頼らず

  1)第二戒「あなたは、自分のために刻んだ像を造ってはならない」

  目に見える像があれば、宗教的感情は沸きやすい。しかし、聖書の宗教はただ御言葉のみに集中する。生けるまことの神は、御言葉をもって語りかけてこられる。「物言わぬ偶像」との違い。その特質をよく伝えてくれるのが詩編115:1-8。

2)詩編115:1-7より

神は「天」にいまし、人間の思いを超える大いなる方。わたしたちが神を造って、ちっぽけな手の中に収めてしまってはいけない。神の手の中にわたしたちがいる。我らの神である主は、生きて働かれる方(詩編135篇参照)。

3)神は生きておられる=神は語りかけてこられる。

神が生きておられるというリアリティーは、神から語りかけられているというリアリティーと不可分離。聖書を通し、牧師の説教を通し、同信の友との語らいを通し、神が語り掛けてくださったという生々しい感覚。御言葉体験。

4)まったく思いを超えた、自分の外から・上からの神の語りかけ。

生けるまことの神は、私たちの中には無かった言葉をもって、語りかけてくださる方。私の小さな貧しい思いを超えて、すべてを見透かすように、打ち砕くように、語りかけ、私を造り変えていってくださる方。

5)詩編115:8.偶像と自分自身との一体的関係。

偶像というのは本質的に自分自身で、自分と同じものを造り出す営み。でも、そのようにして偶像を造り拝むものは、自分も偶像と同じようになる。偶像と 同じような「生きていない者」になっていいのか?

 

●旧約聖書 詩編115:1-8(旧p955)

「わたしたちではなく、主よ/わたしたちではなく/あなたの御名こそ、栄え輝きますように/あなたの慈しみとまことによって。

 なぜ国々は言うのか/「彼らの神はどこにいる」と。

 わたしたちの神は天にいまし/御旨のままにすべてを行われる。

 国々の偶像は金銀にすぎず/人間の手が造ったもの。

 口があっても話せず/目があっても見えない。

 耳があっても聞こえず/鼻があってもかぐことができない。

 手があってもつかめず/足があっても歩けず/喉があっても声を出せない。

 偶像を造り、それに依り頼む者は/皆、偶像と同じようになる。」

 

 

⑥第三戒 心を込めて御名を呼ぶ

   

1)第三戒「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」 

愛を込めて「主よ」と、神を呼ぶことの大切さ。詩編86篇に見られる、祈りの実例。「主よ、わたしに耳を傾け、答えて下さい。・・主よ、憐れんでください。絶えることなくあなたを呼ぶわたしを。あなたの僕の魂に喜びをお与えください。わたしの魂が慕うのは、主よ、あなたなのです。(詩編86:1-4)」 

 

2)聖書が示す固有な神、「主=ヤハウェ?」。 

「主」こそが唯一の生ける真の神、世界の創造者・救済者・完成者であるという聖書の信仰。しかしこの「主」との神名は、元来はヤハウェであったはず。 

第三戒の徹底ゆえに、今やだれも、神の本当の名を発音できなくなっている。 

 

3)第三戒のポイント、「みだりに=ぞんざいに、滅多やたらに・・」 

元来は、魔術・呪術に神の名を用いることの禁止。その本質は、私利私欲のために神の名を安く利用するような、偉大な神様に対する非礼でぞんざいなお付き合いのあり方の禁止。しかし、神を本当に大切にするという意味では、その名を呼ぶことを禁止することよりも、むしろ真実に心を込めて神の名を呼ばせていただくということが大事。心を込めて神の名を呼び、神から名を呼んでいただくという、深くて真実な神様とのお付き合いを追い求めていく。それこそが、第三戒において教えられている神への愛である。 

 

4)「主」=「主イエス・キリスト」。 

わたしたちの主、イエス・キリスト。このお名前こそが、今や私たちが呼びかけるべき神の名。神が与えてくださった、もっとも親しく、あたたかい名。この名に込められた神の救いの意志を確認し、心を込めて、願いを込めて、思いを込めて、愛を込めて、「イエス様」と呼びかけてみよう。 

 

●新約聖書 マタイによる福音書1:18-24(新p1) 

「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。 

 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は『神は我々と共におられる』という意味である。」 

 

 

⑦第四戒 安心して息をする

1)第四戒「安息日を覚えて、これを聖とせよ。」 

どうして私たちは、日曜日に礼拝に集まるのだろう・・。義務だからか? 

自らの回想として、「安心して息ができる時間」だった日曜日。 

魂の飢え渇きをいやしていただく恵みの時間を欲していた。 

私たちが礼拝を守るのではなく、礼拝が私たちを守ってくれているという実感。 

 

2)マルコ2:23-28 

ファリサイ派によるイエス様へのクレーム。 

安息日に弟子たちが「麦の穂を摘んだ」ことが問題。 

「六日の間働いて、七日目はいかなる仕事もしてはならない」との戒めを徹底的に遵守するために、「戒律主義」の信仰姿勢。それは神の戒めへのおそれ。敬虔。きまじめさ。しかし、歪んだ熱心によって見失われてしまった、戒めの本質。 

「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」との、イエス様の大胆な教え。イエス様がもたらしてくれた恵みの教え。 

 

3)第四戒のポイント、「安息日は恵みの日」 

私たちの「魂の休み」のために、神が定めてくださった恵みの日。 

「ネフェシュ(ヘブライ語)=のど=魂」の渇き。 

創造者・救済者・完成者である神のもとに帰るとき、はじめて渇きはいやされる。「魂」は安らぐ。安心して息をする。 

 

4)神が取り分けてくださった特別な一日を、私たちも聖別する。 

安息日の恵みを十分に受け取るための基本的な心がまえ。 

「日曜日の礼拝の恵みに毎週しっかりあずかることができるようにと、自分の環境を整え、健康にも気を配っていく。」これが基本。 

その実践のためには色んな考えがある。一切の俗事から離れて、一日を祈りと聖書と語らいの中だけで過ごすという生き方もある。 

安息日は、神様を信頼して、自分の力を捨てる日。 

私たちが休んでいても、神様は必ず最善を備えてくださるという信頼。 

満ち足りた日曜日を過ごせるように、それぞれに自分と神との関係において、 「安心して息ができる環境」を整えることを祈り求めたい。 

 

 

⑧第五戒 父母を敬う

1)第五戒「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。(出エジプト20:2)」

  十戒は、第四戒までが対神関係について、第五からは対人関係についての愛の教えです。その一番最初にくるのが、「あなたの父母を敬え」であるのはなぜか?それは父と母との出会いは、私たちが神から与えられる最初の他者(隣人)との出会いだからです。それゆえそれは、あらゆる人間関係の要です。

 

2)親子関係において表れてくる人間の罪

  親子関係が健やかな人は、健やかな自己愛をも持つことができます。しかし、親子の関係にこそ人間の罪の現実が一番悩ましい形で表れてくるものでもあります。だれよりも愛し合いたいはずなのに、うまく愛し合えない悲しさです。

  この親子の問題の難しさは、アダムとエヴァの堕落以来の、人間の本源的な罪の性質を映し出しているものです。それは創世記1:16に由来します。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする」との神のエヴァへの定めは、一般的に出産の痛みのはじまりだと言われますが、原語から判断して(=「肉体的痛み」よりも「労苦」の意味が濃い)、これは「子を生み育てることに伴う切ない労苦」のはじまりだと、私は解釈します。聖書に出てくるたくさんのいびつな親子関係 (特に母子の関係)は、そういう「労苦」を証ししています。この「労苦」を宿命づけられている以上、だれ一人としてふさわしく、「父母を敬う」ことも「子を敬う」こともできないのです。だから、まずその罪をイエス様に赦していただく必要があるのです。キリストの完全な愛の中で親も子も完全に愛され、それぞれの罪を赦されることが必要です。そして、互いに赦し合うことへと導かれたい。

 

3)親という存在を、神様から受け取り直す

  キリストの赦しと恵みの光の中で、神への感謝と信頼をもって、神からの恵みの賜物として親という存在を受け取りなおすことができるのなら、その人は幸いです。そういう人は、この地上の生活にあって与えられるあらゆる人間関係をも、健やかに受け取っていくことができることでしょう。人生は、誰と出会ったかによって決まります。いやより正確には、与えられる出会いのひとつひとつをどのように受け止めたのかによって、その人の人生は決まってくるのです。どんな親であっても、どんな出会いであっても、必ずそれには神に付された意味があるから、積極的に相手を敬うことができるなら、きっとその人は豊かに実を結ぶでしょう。

 

⑨第六戒 殺すのではなく生かし合う

1)第六戒「殺してはならない。(出エジプト20:13)」

ハイデルベルク信仰問答106問によれば、「神が、殺人の禁止を通して、わたしたちに教えようとしておられるのは、御自身が、ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心のような、殺人の根を憎んでおられること。またすべてそのようなことは、 この方の前では一種の隠れた殺人である、ということです。」

 

2)「神のかたち」に造られた人間存在の尊厳

どうして殺してはならないか。それは人間が、「神のかたち」にしたがって 創造された尊厳ある存在だからです。詩編8篇にあるように、神にわずかにだけ劣るものとして造られた、という高貴な存在であるからです。だから、誰一人として、殺されても仕方ないような命はありません。私たちは、この神から自分たち自身に与えられている尊厳を、皆互いに思い出す必要があります。

●旧約聖書 詩編8:4-9(旧p840)

「・・・人の子は何者なのでしょう。あなたが省みてくださるとは。神にわずかに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足元に置かれました。・・・」

 

3)私たちは「愛し合う」者として創造された

ヨハネの手紙の言葉遣いによれば、「人を殺す」ということの反対は「愛する」です。愛し合うこと、それが人間本来の姿です。私たちが神のかたちに創造されたというのは、「愛なる神」のイメージに沿って愛し合う者として創造されたということです。そして愛するとは、相手を生かすことです。イエス様が、その命をもって私たちを生かしてくださったように、私たちも、誰かを生かすために、自分の持ち物をささげるという愛の歩みへと招かれています。

●新約聖書 ヨハネの手紙Ⅰ3:11-18(新p444)

「・・・兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。・・・」

●新約聖書 ヨハネの手紙Ⅰ4:9(新p445)

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが 生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」

 

 

⑩第七戒 ただひとりの人を愛し抜く

1)第七戒「姦淫してはならない。(出エジプト20:14)」

「姦淫」について考えるには、広い意味と狭い意味の両方を踏まえる必要あり。広い意味では、性的な不品行の全体。狭い意味では、結婚生活における純潔を 教えるもの。パートナーを裏切ってはならない。裏切らせてはならない。

●子どもと親のカテキズム75「問:第七戒で、神さまは私たちに何を求めておられますか。答:男の人と女の人との関係は、神さまの創造の祝福です。神さまは、思いと言葉と体をきよく保つことを求めておられます。また、結婚生活においては、結婚の誓いを守り、きよい家庭を築くことを求めておられます。」

 

2)伴侶への一途な愛、神への一途な愛

第七戒の中心にあるのは、伴侶への一途な愛。そしてそれは、第一戒「あなたにはわたしのほかに神があってはならない」と、深く結びついている。神は決して裏切ることなく、私たちを一途に愛し続けてくださる。だから、私たちにも 一途な神への愛をお求めになる。そうやって、ただお一人の神様との愛情関係が確立するとき、人はまことの安息を得る。同じように、神が与えて下さるただ一人のパートナーとの間で、愛が満たされる時、人は幸いを得る。

神を一途に愛すること、パートナーを一途に愛することは相通じる。そのことを考えるのに、マラキ書の御言葉が興味深い。古くからの伴侶を裏切って、異教の若い娘に心惹かれることは、主なる神への背信として怒りを受けた。

●旧約聖書 マラキ書2:10-16(旧p1498)

「・・・あなたたちは自分の霊に気をつけるがよい。あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。わたしは離婚を憎むと、イスラエルの神、主は言われる。・・」

 

3)うまく愛し合えないけれど

神との垂直な関係は、人との水平な関係を規定します。ただお一人の神だけ愛し、愛されるという生き方が、「伴侶を裏切らない」という選択を導きます。

そのように生きることができれば幸いです。とはいえ、そのようにはなかなかいかないから、人は苦しむのでしょう。うまく愛せない、愛せなかった自分を責める人もいるかもしれない。でも、懸命に愛そうとするからこそ、聖書の教えに向き合おうとしてきたからこそ、苦しいのではないでしょうか。そういうあなたを、神様はいつも見ておられます。愛し合えないわたしたちの罪を赦し、傷をいやし、愛する力を注いでくださる方、イエス・キリストの救いを待ち望みます。

 

 

⑪第八戒 盗むのではなく与える

1)第八戒「盗んではならない。(出エジプト20:15)」

「盗んではならない」を理解・実践するための3ポイント

 ①「人のものを盗んではならない」という常識的道徳。

 ②「神のものを盗んではならない」という信仰の認識。

 ③「盗むのではなく、分け与える」という新しい生き方。

 

2)「人のものを盗んではならない」、その深さと広さ

釣銭のごまかしから、必需品の買い占めの禁止といったことまで、広い視野をもって。「自分の富ばかりを求める強欲」に気をつけたい。自分の繁栄の背後で、不利益を被る人がいる可能性を考慮に入れ、社会の闇についての感度をあげたい。

●ウェストミンスター大教理問答 142問(141問もぜひ参照) 宮崎訳

「第八の戒めで禁じられている罪は、求められている義務を行わないことのほかには、次のとおりです。すなわち、窃盗、強奪、誘拐、盗品収受、詐欺行為、不正な度量衡、地境の移動、人と人との間の契約や信用問題において公正さを欠いたり、信義に背いたりすること。抑圧、ゆすり、高利、賄賂、訴訟濫用、不法な土地囲い込みと住民追放。価格つり上げをねらった商品買い占め。非合法的な職業、その他、すべて不正で罪にまみれたやり方で隣人からその所有物を取り上げたり、手元に留め置いたりすること、また、同じやり方で自分自身を富ませること。貪欲。この世のものを度を過ごして尊び、愛すること。また、それを入手し、保有し、活用するにあたって、疑念に駆られ、気も狂わんばかりに思いわずらい、考えを巡らすこと。他人の繁栄をねたむこと。さらに加えて、怠惰、浪費、身を持ち崩すに至る勝負事。自分自身の財産を不当に損なうに至るあらゆるやり方、さらには、神が私たちに与えていてくださるその財産を正しく用いて、これを享受することに本心を偽って背を向けることです。」

 

3)より根源的に必要な認識、「神のものを盗んではならない」

 「自分の持ち物は、すべて神のもの」という信仰の視点、キリスト者に固有の視点の大切さ。たとえ、誰にも損失を与えなくても、神様の喜ばれる使い方をせずに自分の利益だけ考えるなら、神に対して盗みを犯すことになってしまう。

 

4)「盗むのではなく、分け与える」という新しい生き方への招き。

 エフェソ4:28「今から」は、「盗む」のではなく「困っている人々に分け与えよ」。委ねられた体やお金や時間をそのように用いる時に、神は喜ばれる。

 

⑫第九戒 偽証するなかれ

1)第九戒「隣人について、偽証してはならない。(出エジプト20:16)」

元来の意味は、「法廷における偽りの証言をしてはならない」。

身分の上下を問わず、偏りなく平等に。人の顔色を見るのでなく、あくまでも神の御前で、神の視点からの公正な裁判がなされるべきという聖書の思想。

🔴出エジプト記23:1-3(旧p131)

「あなたは根拠のないうわさを流してはならない。悪人に加担して、不法を引き起こす証人となってはならない。あなたは多数者に追随して、悪を行ってはならない。法廷の争いにおいて多数者に追随して証言し、判決を曲げてはならない。また、弱い人を訴訟において曲げてかばってはならない。」

 

2)ただ「嘘をついてはいけない」ではなく、隣人愛の視点から

「悪いうわさを流したり、うそをついて友達を傷つけてはなりません。(子どもと親のカテキズムより)」。良い噂よりも悪い噂を好んで語る、わたしたちの病的悪弊。だれかの名声を引き下げたいと願ってしまう、意地悪な感情。たとえウソではないとしても、そのような悪しき感情のからんだ真実の暴露を、神は喜ばれるのか。私たちに、自身の卑屈な思いに気付かせていただきたい。

●ウェストミンスター大教理問答 144問

「第九戒で求められている義務は・・・心から・誠実に・自由に・明白に・十分に真実を語ること、隣人を心広く尊敬すること、彼らの名声を愛し願い喜ぶこと、 彼らの欠点を悲しみ包むこと、彼らの才能や長所を心から認めること、彼らの潔白を擁護すること、彼らに関する好評を受け入れるに早く、悪評を認容するのに遅いこと、陰口を言う者・へつらう者・中傷する者に水をさすこと・・・」

 

3)「真実な言葉」、それは、まごころからの愛の言葉。

 「正しい人」ヨセフが、マリアに対して示した思いやりに教えられる。

神が求める「真実」とは、限りなく「愛」という言葉に近い。そして、隣人に対する真実の言葉とは、相手を思うまごころからの愛によってつむぎだされる、繊細で丁寧な言葉。いつも他者への信頼と尊敬をもって、悪口や陰口から距離をおき、その人自身を丁寧に見極めるまでは安易に批評したり、噂話をしたりしない。そして、自分の悪い感情に振り回されないで、その人の為に必要な言葉、 その人の魂を救い、建て上げていくための言葉を、丁寧に丁寧に語っていく。

教会は、そんな真実な愛の言葉が、語り合われる場所でありたい。

 

 

⑬第十戒 隣人の家を欲するなかれ

1)第十戒「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。(出エジプト20:17)」

ここで問題になっているのは貪欲の罪、「むさぼる=ほしがる」。少しでも多くのものを自分のものとしてほしがる心、特に金銭欲のもたらす危険。また特に、「隣人のもの」がうらやましくなる人間の悲しい性。その貪欲が引き起こす様々の悲劇、争い。サムエル記下11,12章に記されたダビデ王の汚点。ウリヤの妻バト・シェバをほしがり、強引に奪い取った、決定的な罪深さ。

🔴Ⅰテモテ6:8-10(新p389)

 「食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。 

 金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの 

 欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲

 は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、

 さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。」

 

2)第十戒を考える重要な視点「人と比べるな」。

私たちの心に深く根を張る「ねたみ・劣等感」の問題。それこそ、十戒の最後に扱われるべき一番厄介な問題。殺しや盗みや嘘や、すべての具体的な悪い行いの元凶。創世記4章「カインとアベル」カインのねたみが引き起こした殺人。 マタイ27:18「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。」十字架の原因は、ユダヤ教指導者らの「ねたみ」の感情。

 

3)感謝することを覚えよう

 この「ねたみ」の問題は根深い。それを捨て去ることはできない。ならば無理に捨てようとせず、隠すこともせず、惨めな心を主の御前にさらけ出し、抱きしめてもらうしかない。ねたみを捨てることはできない。でも代わりに、感謝することを覚えたい。感謝で心を満たせるように。「感謝しなさい」、これは命令形。十戒は命令形でないのに、これは命令形。これこそ、イエス・キリストにおいて神がわたしたちに求めておられること=「神の御意志、みこころ、願い」。

🔴Ⅰテサロニケ5:16-18(新p379)

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。

 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、

 神があなたがたに望んでおられることです。」