2020517日 創世記1214、ローマ117③「信仰、すなわち従順」

 

 最初の挨拶だけで3回目の解き明かし。隈なく語りつくそうと思うと、何回かかるのか分かりませんので、不十分ではあっても今回で終わりましょう。今日は「信仰、すなわち従順」という説教題です。これは5節に由来します。「わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。」この方、すなわちイエス・キリストに選ばれ、召し出されて、異邦人を救いに導くという特別な務めをいただいた。パウロにはそういう自覚が強くありました。

 異邦人とは、ユダヤ人から見た外国人。それは「まことの神を知らない人々、神の民ではない人々」ということです。ユダヤの人々は、この世界の創造者である主なる神と、特別なお付き合いがゆるされ(=契約を結ばせていただき)、この神によって不思議な歴史を導かれてきた神の民という自覚をもって生きていました。その神様とのお付き合いを知らない人は、みんな異邦人。私たち日本人もまた異邦人であったけれども、それぞれ不思議な導きによって、聖書の神様と共に生きることへと招かれた「召された聖なる者たち」。その自覚を明確に持たないままで、洗礼は受けているにもかかわらず、なお心は「異邦人」のままという方もいるかもしれない・・。

それはともかくとして、そういう風にまだ神様との真剣なお付き合いを始めていない、そんなことを考えたこともなかったという異邦人に、福音、すなわち御子イエス・キリストがついに来られたのだという知らせ(=決定的な救いのタイミングの到来!!)を知らせる。今がチャンスだ、この時を逃してはならない。これまであなたたちに対して閉ざされていた救いの扉が開いた。神様はあなたがたのことをもお招きになっていると知らせて、異邦人を「信仰による従順」へと導く。これこそ、自分に与えられた役割、務めなのだと言っているのです。ポイントになるのは、この「信仰による従順」という言葉です。

 

「従順」とは、「聞く」という言葉から派生した言葉です。おもしろいですね。「聞く」ということを突き詰めていくと「従う」ということになる。イエス様は山上の説教の中でおっしゃいました。「私のこれらの言葉を聞いて行う者は、岩の上に家を建てた賢い人に似ている(マタイ7:24)」。その反対は「聞くだけで行わない」・・、というよりも、そのような人は、本当は聞いていないのです。私たちはどうしても、自分に都合のいいことしか聞こうとしないという、決定的なかたくなさを誰もが抱えています。「イエス様、お言葉はごもっともです。しかしそうはおっしゃいますけど現実は厳しいのですよ、ご存じないかもしれませんが・・」と、すぐにイエス様に対して“お説教”しようとしてしまいます。「イエスの言葉を奪い取って自分の言葉にしてはならない(ボンヘッファー)」。本当に私たちは、イエスの教えを聞いていると言いながら、自分に都合よくねじまげているのではないでしょうか・・。本当に「イエスの教えに聞く」なら、「行い」に結びつかざるを得ない。「聞く」ことは「従う」ことに結実するのです。

そしてここでは、「信仰による従順」と言われています。「従順」という言葉に、形容詞的属格として「信仰の」が付いている。「信仰の従順」とするのがシンプルな訳。これをどう解釈するかで分かれます。「信仰に従順ならしめる(文語訳)、従順にこの信仰を受け入れさせようとする(塚本訳)」など、「従順に信じる」ということだと考える立場。他方で、この新共同訳もそうですが、「信仰から生まれてくる従順な姿勢」のことを言っているとする立場もある。「形式的な律法主義の従順ではなく、まことの信仰から生まれる神への幼子のような従順」と考える人もいる。そういうわけで細かな解釈の違いは色々あるのですが、どちらにしても確かなのは、「信仰」と「従順」とはセットで考えるべきものだということです。「聞く」ということが「従う」ことに行き着くように、「信仰」すなわち、神を信じイエス・キリストの福音を信じるということは、「従順」な姿勢ということと深く結びついていて、切っても切り離せない。

そういう意味で、私はここのところを「信仰、すなわち従順」と訳したいと考えます。そのほうが、より聖書的だし、パウロらしいと思います。「信仰」というのは、常に「従順」と一体的です。神を信じる人が、神の言葉に忠実に従って歩むことで、救いの歴史は展開されてきました。その証しの記録をまとめた歴史物語が聖書の軸です。今日一緒にお読みした創世記12章のアブラハムの旅立ちの姿が、最も象徴的です。アブラハムは「信仰の父」と言われる存在で、「信じる」とはどういうことかを示す一つの模範でもあります。でも、この創世記12章には「信じる」という言葉は使われていません。アブラハムは「神の言葉に従った」とあるだけなのです。

「わたしが示す地に行きなさい」との神の言葉に従って、「生まれ故郷、父の家を離れて」、慣れ親しんだ自分の世界を捨てて75歳にして旅立ったアブラハムでした。それは行き先を知らないままの出発であったとも言われます(ヘブライ12:8)。行き先も知らずに出発するというのはどういうことでしょう。行き先がないわけじゃないのです。あてのない、さすらいの旅を始めたわけじゃない。行き先はある。約束の地に必ず行き着く。しかし、それがどこにあるのかは、自分には分からないのです。地図が無い。正解を知らない。だから、とても心もとなく不安になります。本当にこのルートでいいのだろうかと悩んでしまう時がある。こちらの方で、計算が立っているわけではない。見切り発車もいいところです。でも、ただただ神の約束を信頼して、コーリングに応えたのです。自分ではなく、神に従ったのです。それが「神を信じる」ということでした。

 

「信仰」とはそのように、「従う、従順」ということを抜きには考えられないものです。でも、こういう考えはなかなか受け入れがたいものでしょう。私自身そうでした。聖書を読み始めた頃、どうにも嫌だったのが「わたしに従いなさい」というイエス様の教え。何度も出てくる。大学を出たばかりで、世の中の枠にはめられることに抵抗を覚えていた当時の気分と重なって、「イエス・キリストって意外と上から目線だな・・」と違和感を覚えていた。でも、申し上げましたように「従う、従順」、もっと強い表現を使うなら「服従」ということを抜きにして、神様とのお付き合いをすることはできない。

神との関係性(イエスとの関係性)はいろんなものに例えられます。「友情」という表現もゆるされるほどに、親しい友のような近しさを覚えることがゆるされている。「夫婦」や「恋人」にたとえることさえ許されている。甘い関係であることは確か。でも同時にわきまえていないといけないのは、「主従」の関係ということです。これが根本の関係(=契約関係)。パウロも言っていますように、イエス・キリストは「わたしたちの主」であります(4節)。ご主人様です。そして私たちは、その主であるイエス・キリストの「僕」です(1節)。彼が右に行けと言われれば行かねばならない。もはや自分の人生は自分の思うままにしていいものではなく、主イエスのものであって、主の命じられることに従って生きねばならない。自分のうちに、キリストが生きている。わたしは、主の僕であり、用いられる器に過ぎない。パウロ先生はいつもそういう信仰のかまえというものを、私たちに身をもって示してくれています。

「召し」ということを大事にするのも、この姿勢から生じるものです。すでに分かち合ってきましたが、この挨拶の中でパウロは何度も「召された」ということを強調する。私も召された、あなたがたも召された。神からの「召し」。これがすべてを規定する。

先日、若い方と話をしていました。生きていこうとすると、やりたくないことでもやらなきゃいけないことがあるよね、という話をしていました。私の場合は、会社組織で生きていくということが自分にはどうにも苦手だと思って牧師になったのに、残念ながら教会でも同じような苦手な働きが用意されることしばしばです。そういう時は正直言って、憂鬱になります。「では、そういう時に先生はどう考えるのですか?やりたくないようなことでも一生懸命やろうと思えるのはなぜですか?」とその方は聞いてくださった。私は、それは「召し」だからだよと、反射的に応えていました。

「召し」と言っても、神のお考えのすべてが分かるわけではありません。でも、その時その時の出会いとか、誰かから急に持ち掛けられる話とか、私たちが直面する出来事をどう考えるのか。私はそこにいつでも、神からの「召し」を覚えます。何でこんな話を自分に持ち込んでくるかと、ため息をつきたい時もあります。今で言うと、どうして自分が常任書記長の時に、こんなウィルス感染症の問題が起こってくるのかと、正直言って嘆きたくもなる。でもそこにはいつも神のご意志があって、神が「お前がやれ」と言っておられるから、自分にこの話が回ってきた。この出会いが与えられた。この役割が与えられた。だから、やるしかないと思う。そんな風に答えました。

そういう風に聞くと、どこか体育会系のマッチョな響きを感じるかもしれませんが、それは本意ではないです。どうしてもやりたくないことなら、逃げてもいいと思う。すべてを「召しだから従いなさい」と、人が人に強要するような場面には強い違和感を覚えます。でもそういうことを踏まえた上で、それでもなお「召し」だから従わねばならないと、覚悟を決めねばならない時というものがあります。そして大切なこととして覚えていただきたいのは、「従う」とか「召し」とかいう言葉を使う時に、いつも私たちの根底にあるのは、神への信頼です。神が必ずすべてを備えてくださる。私たちの救いのためにその独り子さえ惜しまず死に渡してくださった神が、その他のすべてのことを備えてくださらないはずがない(ローマ8:32)。神がやれと言われるからには、ちゃんと最後まで責任をとってくださるに違いないという信頼です。

 

考えてみると、聖書というのは命令形に満ちています。今は、命令形は嫌われる世の中かもしれない。でも聖書と言うのは、神からの命令の言葉で満ちています。「わたしに従え」とのイエス様の招きが嫌と言うほど繰り返されます。「立ち帰れ立ち帰れ、お前たちは死んではならない、滅びの道を進んではならない。罪から神へと立ち返れ、悔い改めて、命を得よ!」との切実な神からの訴えが記されます。これも命令です。このローマ書も命令形がたくさんあります。パウロの口を通して、神が私たちに命じておられるのです。

「あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神にささげ、また、五体を義のための道具として神にささげなさい」と命じられます(6:13)。

「あなたがたはこの世にならってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」と命じられます(12:2)。

私たちの教会の今年の年間標語もそうです。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。(12:15)」。すべて、パウロを通しての神からの命令です。そしてそのすべては、命の道への導きです。

 

そして覚えていてください。命令というのは、それを発した者が全責任を負う言葉です。命令というのは、責任を自己に引き受ける覚悟で発せられるものなのです。私は責任を負えませんから、どうぞご自由に判断なさってください。一応、こっちをお勧めしますけど・・、そういうものじゃない。この道を歩みなさい。必ずあなたが幸いへと至る道だ。私が絶対にそれを保証すると、三位一体の神がパウロを通して、全責任を引き受けて語っておられるのです。その覚悟は、独り子イエス・キリストの贖いの死と復活において、もう十分に示されています。神は私たちを命の道へと本気で導き返すために、独り子を死に渡してくださいました。これまでの罪が赦されるように、そして新しくキリストと共に歩み出せるように。キリストの復活によって、永遠の命に至る救いの道を開いてくださったのです。この神が示された覚悟に信頼するからこそ、私たちもまた、神の命令に従うのです。主イエスの示される道を行くのです。