2020816日エゼキエル362224、ローマ21724

「神の名を汚さぬように」

 

私たちの教会では、ローマの信徒への手紙を連続講解説教しています。約2000年前、まだキリスト教会が産声をあげたばかりのころ、使徒パウロから帝国の首都であるローマにいるクリスチャンたちに向けて送られた手紙。私たちはそれを後から覗き見させていただいて、2000年後の今の自分たちにとっても大事な教えをくみ取って受け取らせていただいている。そういう作業を解釈といいます。解釈の専門家が、牧師です。聖書というのはそのまま読むだけではどうにもよく分からない箇所がある。でも、牧師が聖霊の導きをいただいて、ふさわしい解釈によってメッセージをくみ取り、今週の私たちに与えられた神様の言葉として語り直してくれる。それが、今なされている説教ということ。

そういうわけで、今日も私は皆さんの牧師として、今日与えられたテキストの御言葉を解釈して語り直そうとしているわけですが、今日の御言葉はなかなか解釈が難しいところです。というのは、これは明らかにユダヤ人に向けて語られているからです。皆さんは、自分は何者だと自称されますか。日本人ですか?あるいはキリスト者と自称する方もいるかもしれない。とりあえず、ユダヤ人と自称することはないと思う。でもこのテキストは、「ユダヤ人と自称する者たち」に宛てて書かれている。

 

内容的には、厳しいことが言われているなあというのは、聖書に不慣れな方でも分かるのではないでしょうか。明らかにユダヤ人が言行不一致を責められていますね。こういう御言葉をどう受け止めればいいか。内村鑑三などは「もしパウロが今生きていれば、同じ言葉でもってキリスト教徒を糾弾するであろう」ということをおっしゃる。他方で、これはユダヤ人のことを言っているのだから、私たちには関係ないとする考え方もある。短絡的に自分に適用して、自分を責めるのはふさわしくないという考え。確かにそこは慎重でありたい。ただ、そうは思いながらも、やっぱりこの御言葉を読んでいて、どうしても自分のこととして受け止めざるを得ないといいますか、これから逃げてはいけないと示された言葉がある。それが24節「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている。」これはもう理屈抜きで、グサッと心に刺さってきました。

神の名が異邦人の中で汚されている。異邦人とは、まだ神を知らない、信仰から離れている人々のことを意味する聖書の言葉遣いです。その意味では、日本人というのはほぼみんな異邦人です。そういう異邦人の中にあって、「あなたたちのせいで、神の名が汚される=冒涜される」、これはどういうことかといえば、私たちクリスチャンの生き様を、とりわけ私のような牧師の生活をご覧になって、「ありゃ何だ?キリストなど、ろくなものじゃないな」と神様が馬鹿にされるということです。これは残念なこと。

私たちはよく、こんな風に言います、「私を見ないでよ、私を見るとつまずくから・・。神様を見てよ」と。でも、そう言いながら、いつも申し訳ない思いになるのも事実です。信仰は、人ではなく、神を見ることであり、人間に左右されてはいけないというのは真理です。でも、そういうことを、まだイエス様を信じていない人にいくら言ってみたところで、説得力はありません。まだ神を十分に知らぬ人々にとって、先に救われたキリスト者の存在が、どうしても鏡になるのですね。神の真理を映し出す鏡。この人の信じている神が本物かどうかというところのバロメーターとして、その人の生き様を見るということがある。どうしても私たちの一挙手一投足が見られている。

ただ、そうであるからといって、私たちが立派なクリスチャンとして振舞おうとしてみたところで、うまくいくわけもありませんし、それでは何かが違います。立派さにも色々あります。道徳的、倫理的に品行方正、親切、寛容、平和を作り出す人。信仰的に動じない、強い・・。いろんな立派さがある。いずれにしても、そういう立派な信仰を見て、この人が信じる神様はさぞかしすごいのだろうと人々が感心する、それはよく分かりますよね。でも、キリスト教とはそういうものかと思われるとするなら、それも何か違うと思う。

私自身はどうかというと、やっぱり最初は信仰者の立派さに感動したものです。「ここにいる大人たちは会社の人たちとは違う。愛や正義ということを大真面目に話してくれる」と感動し、彼らの生き様に触れることをきっかけにして神様に近づいていったことを思い出す。でも、確かに彼らは立派ではあったが、むしろ私自身がその時見ていたのは、自分が出会った信仰者たちの正直なありかただったと思います。それは、神様の御前で自分の小ささ、弱さをさらけ出すという、正直な姿。牧師さんがそういう人でした。かわいがってくれた長老さんもそうでした。酔っぱらっては奥さんに怒られてばかりの人でしたが、「誇る者は主を誇れ」が口癖の方でした。「ええか、坂井くん。おじさんは誇れるものは何もない。ほんまに何もない。でもな、こんな僕でも、イエス様に生かしてもらってる。神の助けがなかったら、少しも生きられない。ええか、坂井くん。自分を誇ったらあかんで。誇る者は主を誇れやで」と、まだ会って間もない私に、一生懸命伝えてくれました。私はそういう姿を見て、神様は本当にすばらしい方なのだな。この神様の前では、みんな小さくて、弱くて、でもそういう者を生かしてくださる・・。イエス・キリストを信じるということは、すばらしいことだなと感じた。

 

改めて考えてみたい、パウロが言っている「神の名を汚す」とはどういうことか。パウロはユダヤ人たちに何を伝えようとしているのかを。結論から先に申し上げれば、パウロが糾弾しようとしているのは、当時のユダヤ人が持っていた歪んだ特権意識でした。これは前回も申し上げたことですが、大きな文脈で言うならこの23章にかけてというのはすべて、その歪んだ特権意識を砕くための言葉。神から特別に選ばれた選民としての自意識が、悪いかたちで肥大してしまっていたのが当時のユダヤ人。

その彼らの自意識がどれほどのものであったかは、今日の1720節に明瞭です。彼らは「律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえている」という意識でいる。この意識自体は何も悪いものではありません。本当にこういう信仰者でいられるなら、それはすばらしいことなのです。自分は神様との特別な関係に入れていただいたのだということを誇りとして、聖書に親しみ、神の御心を求め、何が大切なことであるかを見分けることができる、そういう信仰者でありたいと思わされる。

それから、19節「律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え・・・」、これもユダヤ人の大事にしていたこと。ポイントは“具体的”ということ。聖書の教えというのは、観念でとどまるものではなくてとても具体的、生活と関わる。つまり、隣人が貧しくて困っているなら助けてやれということで、お金を貸すにしても利子をとるなとか、上着を質にとる場合には日没までには返してやれとか、とても具体的。そういう教えに聞き従うなら、人間の心は作り変えられずにはいない。社会は改善せずにはいない。実際ユダヤ人の教えというのは、当時のギリシャ・ローマ社会の退廃した文化に嫌気がさしていた知識人たちに喜んで受け入れられたところもある。立派な教え。そういう教えを持っているからこそ、「盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師である」と自負していた。それが当時のユダヤ人、特にファリサイ派の自意識。

繰り返しますが、こういう自意識というのは、それ自体悪いものではないし、本来神様から期待されている信仰者の役割でしょう。だから私たちクリスチャンは、批判するよりむしろ、もう少しこういう意識を持った方がいいと私は思います。この日本という異邦人世界にあって、私たちは神との特別な関係に招かれた特殊な民。祝福の源。私たちの存在が闇を照らす世の光、そういう意識は大切。ただ残念ながら、意識だけではダメなのです。自意識だけ過剰で、中身が伴っていないことが一番みっともないわけですが、残念ながら当時のユダヤ人もそうでした。そこをパウロは批判しているわけです。

それが21節「あなたは他人に教えながら、自分には教えないのか。盗むなと説きながら、盗むのか・・」こういう言行不一致は、どこまで実態を表しているのか難しいところ。そういう露骨にダメな人はごく少数で、多くのユダヤ人は神の戒めを大切に、盗みなどの不道徳を避けてつつましく生きていたのだろうと私は思っています。そういう意味ではパウロの批判は大げさです。でもこういう言い方をすることでパウロが強調したいのは、あなた方は決して完璧ではありえない、むしろ綻びがたくさんある、ということなのです。人前では立派に振舞えたとしても、心の中までお見通しの神の前では、神の教えの通りに生きることができる人なんて誰もいない。そのことを大げさな言葉遣いで言おうとしている。

あなたたちもまた欠けだらけの存在ではないか!!と。それなのに、その欠けに対してまっすぐ向き合おうはしないで、ごまかしたまま、「自分たちは選びの民だから大丈夫。律法を持っている、神との特別な関係にある民族だから」と、安心してあぐらをかいて、その高みから人を馬鹿にしているような、そういう歪んだ特権意識、それこそがこの時代のユダヤ人の問題でした。そういうあなたたちの信仰の姿勢が、神を辱めているのだとパウロは言いたいのです。そんな特権意識は捨てなさい。そうではなく、おのれの無力さを認めよ、おのれの罪をちゃんと見つめよ。

 

意識過剰で中身が伴ってない、それが一番みっともないと申し上げました。でも、それは確かにみっともないことだけど、それ自体が責められているのではない。それを責められるのならみんなどうにもなりません。問題なのは、そのみっともなさを素直に認めないことです。自分のみっともなさをちゃんと見つめて、そういう自分のことごとくを明け渡すようにして、神様の前でただ憐れみを求めてひれ伏せばいいのです。そうすれば、十字架の主イエスの贖いに免じて、神はすべてを赦して、そのみっともない私を受け入れ、義としてくださるよ・・それが、パウロの伝えた福音でした。この福音を受け取ってほしい。

 

最初に申し上げたように私たちはユダヤ人ではありません。でも、彼らが抱えていたみっともなさは、私たちもまた抱えているものです。みっともない自分を認めることのできないみっともなささえ、同じように抱えている。神から見てバレバレなのに。そしてたいていは、人から見たってバレバレです。本当は自分だってわかっている。クリスチャンだと名乗りながら、全然教えの通りに生きられていないみっともない自分が分かっている。

そういう私たちのみっともない姿のゆえに、「キリストなど、ろくなものじゃない・・」と御名が冒涜されるとしたら、こんなに申し訳ないことはありません。でもね、そういう私たちが神の子として受け入れられるように、そのためにキリストは十字架で死んでくださったんじゃないですか。私たちは、神の名を辱めてしまうダメな者。でもそういう者を、待っていてくださって、首を抱きとめて愛してくださる神。私のために、神が恥をかぶってくださったのがイエスの十字架。だから、十字架の前に、このみっともない自分をすべてさらけ出して、赦していただくしかない。愛していただくしかない。

そしてそこから、祈るのです。御名をあがめさせたまえと祈るのです。この祈り、分かりますね。主の祈りの一番最初ですよ。一番大切な祈りです。「神の名を汚す」の反対は、「御名があがめられる」ことです。神様はすばらしいと、多くの人の口によって賛美される。私たちの姿が証しになって、神の名が高められる。そのことを祈るのです。本気で祈るのです。そういう祈りは必ず聞かれます。

最後に、今日一緒に読んだ旧約聖書のエゼキエル36章の言葉を分かち合って終わりましょう。この言葉は救いです。22節からのところをお読みください。そこで神様は、「23節 わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする」と言って下さっています。自らの力によって汚名返上をなされると、言って下さいます。

26節 わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。・・わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。」

神様の霊である聖霊が与えられなければ、私たちは、よき証しを立てることなどできません。だから、お前たちに「新しい霊=聖霊」を与える、そして、お前たちを作り変える、神の教えに従うことのできる新しい心を与えると、神が約束してくださいました。だから、私たちも祈り求めましょう。御名があがめられますように・・。今、改めて、もう一度ここから!!