202082日申命記418、ローマ21216

「神に従っているのは誰なのか?」

 

【新共同訳】

 2:12 律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。

 2:13 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。

 2:14 たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。

 2:15 こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。

 2:16 そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。

 

 

子どもメッセージ

「律法」とは何かと言えば、モーセの十戒を中心とした聖書の教え・戒めです。特に大切にされるのはモーセ五書と呼ばれる創世記から申命記にかけて記された神様の教え、その中には細かな祭儀規定や共同体のルールもありますが、その中心は十戒であり、さらにそれを煮詰めていくと、神への愛と人への愛となっていく。それが、神の民としての生き方のルールなのですね。そういう律法に忠実に歩んでいくならば、命を得る(申命記41「イスラエルよ、今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、・・・」)。

 残念ながら私たちは、神様と心ぴったりには歩めない。でも律法に従って生きることが、私たちにとって本当は一番幸せなことなのですよ。イエス様は、それができるようにさせてくださる救い主。だから、「律法に忠実に歩めない私を赦してください。歩めるようにしてください」と、祈りましょう。

 

 

皆さんは、自分が神の民であると、どういう時に自覚なさるでしょうか。神の民=キリスト者、あるいは天に国籍を持つ天国人でもいい。世の人たちとは違う、との自覚。先ほど子どもたちと分かち合ったように、ユダヤ人は、十戒を持っていることがプライドでした。そういうことを考えさせられたことはあるでしょうか。自分は十戒に生きるキリスト者だという意識。そういうことを自ずと自覚させられるのは、まだ神様を知らない人々との交わりの中であろうと思います。勝田台にいた頃、自治会長を務める中で、考えさせられた。みんな牧師さんだと分かっている。餅つき大会で臼にお神酒をかける儀式も、申し訳ないができませんと断る。スピーチをするとさすが牧師さんだと。一番自覚させられたのは、トラブルがあった時。ご近所トラブルの苦情が持ち込まれる。どう解決するか。キリスト者としての愛が問われる。神の教えに生きる者として、いがみあう者の間に立ってどう振舞うべきか。それが証しになると思った。でも、そういうのは、人からの評価を気にした偽善的な振る舞いだということも、自分でよく分かっている。イエス様は全部お見通しだと分かっている。本当に、十戒に真実に生きる、愛に生きる、律法に生きるということは難しい。神の民の証明書は持っているのに、それを偉そうに語っている牧師なのに、律法の要求するところを本当に実行しているとはとても言えない。そういう者が神の御前で正しいとはされない。

今日のところでパウロが言っているのは、そういうことと深く関わります。ここで言われていることは実にシンプルなこと。神様の律法に要求されているところのことを真に実行している者が義とされるのだよ。それは聖書に親しんでいる信仰者であるかないかに関わらず、たとえ聖書を全然読んだことがなくても、聖書に教えられているところのことを本当に実行している人こそが義とされる。そういう人が存在すると言っているわけじゃないのですよ。結論を先に言えば、そんな人はいません。でも、神様に義とされるというのは本来、そういうことなのだと言いたいのですね。聖書の律法を知っているかどうか、十戒を知っているかどうかが問題じゃなく、本当にそれに生きているか。

こういうパウロの言葉というのは、何よりもまずユダヤ人に対する批判なのです。パウロの目から見て、当時のユダヤ人というのは、律法を持っているだけで実行していない人たちでした。彼らにとって、律法を持っていることが民族の誇りであったとすでに申し上げましたが、当時のユダヤ人には歪んだ特権意識がありました。純血主義や排外主義がはびこり、神から特別に選ばれた選民としての悪しき自意識が肥大して、「選民のしるし」としての割礼や安息日順守、あるいは細かな食事規程などの外面的なルールを守ることばかりにとらわれていってしまったのが、当時のユダヤ人の特徴でした。そういうユダヤ人に対して、違う、神はそんなところを見ておられない。ユダヤ民族であるかどうかが判断基準ではないと批判しているのが、パウロです。

ローマ書23章にかけては、ずっとそのように、ユダヤ人の異邦人に対する特権意識を砕くための言葉です。確かに神を知らない異邦人世界はぐちゃぐちゃに乱れ切っているけど、あなたたちも神の御前にあって自らを省みよ。あなたも同じことをしていると、ユダヤ人を攻め立てる文脈。そういう文脈の中で、今日の御言葉は特に「律法」ということを取り上げて、「律法を持っているだけではダメなんですよ。それを行わないなら意味がない」と言っている。

それが13節「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです」。律法を聞いているけど実行しない・・・。そこで問われているのは、単に道徳的な生活という次元ではない、その次元なら、できているユダヤ人もたくさんいたはず。でも、もっと深い次元で律法に生きるということ。本当に命を得ているのか。神の律法を心から喜んで、神の御心とぴったり一つになって生きることができるなら、私たちはもっと自由に平安になれるはず。でも、そうなれないというところで、みんな悩む。それはなぜか、それを妨げるものがあるから。思い煩い、誘惑、自分の勝手なこだわり・・・。

それをごまかしたまま、律法に生きる神の民を気取っているだけじゃないか。聖書の教えに生きるクリスチャンを気取っているだけじゃないか。でも、そのままでは命を得ないよ。義とされないよと言うのです。ちゃんと向き合わなきゃいけない。自分がごまかしていることのすべてと、ちゃんと向き合わないといけない。そこから始まる。キリストの赦しと救いはそこから始まる。

 

繰り返しますが、今日の御言葉で教えられているのは、非常にシンプルなことです。誰もが神の律法を基準にして裁かれる。そこにひいきはない。ユダヤ人だから、律法に親しんできたからと言って優遇されない。これが文脈的に、一番強調すべきこと。また他方で、今日の御言葉はとてもユニークなことが書かれていて、異邦人の場合もまた同じだよ、結局、神様の律法に照らされて裁かれるのだよということが、14節以下に示されています。これがユニークなところ。

異邦人だから、今まで聖書なんて知らなかったのだからとの言い訳はゆるされないというのが主旨。例えばかつての私のような、聖書になど触れたこともない日本人がたくさんいる。でも聖書を知らないからと言って、人を殺しちゃいけないとか、人のものを盗んではいけないとか、十戒の精神についてはみんなある程度知っているはずです。それは、すべての人間の内には、ある程度は、神様の律法がすでにインプットされているから。それが14節に言われていること「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。」

モーセの十戒を知らなくても、その命じられているところのことを自然に行う。そういうことはありますよね。非キリスト者であっても、時にすばらしい道徳的偉業を成し遂げる方がいます。そういう道徳的な人々の存在は、“律法の要求するところのことが、律法を持っていない人々の心にもある程度は記されている”ということを、確かに証明しています。

私たち誰もが持っている、いわゆる『良心』というものも、そのことの証明になります。「良心」とは、「善悪の自己批判能力」でして、自分自身のことを客観的に見つめて、そんなことしていてはいけないでしょと警告を発するセンサーです。それが、良心の呵責を覚えるということです。それは、私たち人間が本来、「神のかたち」に造っていただいた倫理的・道徳的存在だからです。だから、そういう「良心」も持っていて、神様の律法から外れたことはしちゃいけないということを、誰でもある程度は分かっているのです。だからこそ、言い訳をゆるさないとパウロは言うわけですね。聖書に示されている「律法」の要求するところを実行できないなら、律法を知らない異邦人もまた問答無用で裁かれるというのです。

 

ですから、律法を持っているかどうかが問題なのではなくて、大事なのは、そこで要求されている中身のことを本当に命に満ちて行っているかどうか、それが神様の見ておられるところで、いわば神の審判の基準なのだということですね。もちろん、それは誰にもできないということは、パウロが一番よく知っている。誰もできない。だから、キリストを信じて救っていただくしかない。それが福音。しかし、その福音ということを考えるために、神の裁きということをパウロは本当に真剣に考えるのです。真実に律法を実行しているのかということを、考える。しかもそれは、うわべを取り繕うことではごまかせないのです。神は、隠れているところまでご覧になって裁きをされます。

それが最後の16節に示されていることですね。「そのことは、神が、わたしの福音の告げる通り、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」「隠れた=秘密」の事柄。どうしても人に見せたくない、心の奥底に隠しているやましい思い。神の律法からかけ離れてしまっている心。そういうところが、すべてあばかれる。そして、全部ありのままに、イエス様によって裁かれます。そのことを真剣に考えだすと、やはり恐ろしいと言いますか、逃げたい、このことをあまり考えたくないという思いが、私の中にあります。

今回実は私は、準備をしながら難儀した、何か肝心のところを取り逃しているような思いがずっとあった。きっとそれは、この最後の御言葉から逃げているところがあるからなのだと思います。隠れた事柄を明らかにされる裁きの日ということを、どう受け止めればいいか分からないのです。そういう裁きがあるけど、キリストを信じるなら私たちは救われます。赦されますと安易に申し上げることも、何か違うと思います。今日のところでは、やはり裁きが語られている。それを語らねばならない。でもどうしたらいいかと、そういう迷いを抱えながら、悩む中で、大変興味深いことに気付きました。それは「わたしの福音の告げる通り」とあることです。パウロは、これらすべてを「わたしの福音」と言っているのです。つまり、そういう裁きの日のことをも含めて、「わたしの福音」だとパウロは言っているのですね。

このことについて、正直言ってまだよく分からないのです。でも、「福音」ということには、裁きということが含まれるのです。裁きの座にあっては、神の御前で、わたしたちのごまかしている一切合切があばかれます。そうなればもう、聖書に生きるクリスチャンだなどと気取ってはいられません。必死で隠そうとしてきたすべての恥があばかれて、裁かれる。それは本当につらいことです。でも、そうして私のダメさがすべて暴かれるその時に、私たちは初めて真の解放感が与えられ、魂は平安を得るのかもしれません。キリストを信じて生きる者には、裁きと同時に、赦しがあるからです。神の裁きは恐ろしいのです。私の内にある、決して義とはされないやましい心、神の律法から遠くかけ離れている真実の姿がすべて暴かれる。でも暴かれると同時に、すべてが受け入れられる。それが、あの十字架が示している救いの真理です。

 

 

この後の聖餐式において、それぞれに問われることがあるでしょう。聖餐は、あの十字架に示された神の裁きと愛に直面する時です。隠していたい自分の罪深さがすべて明らかにされてきて、とてもパンと葡萄酒を受け取れない。この恵みに自分はふさわしくないと、自分で自分を裁こうとする方もいるかもしれない。でも、そういう私たちだからこそ、この聖餐に与るべきなのです。主の十字架の死は、神の愛であると同時に裁き。裁きであると同時に愛。無限の愛。悔い改めをもって、主の死に与らせていただきましょう。