主の祈りを学ぶ① マタイ6:5-6より
🔴マタイによる福音書6:5-6(新p9)
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らはすでに報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
1)「偽善者のようであってはならない」
山上の説教において、「主の祈り」が教えられるに先立って、「偽善者のように祈るな」との教えがなされています。これは祈りそのものを禁じるものではありません。むしろ祈ることに努めて熱心であるべきです。本来、神に語りかけることなど許されないような罪人が、和解赦され、神と語り合うことができる。 これはイエス様がその十字架の血によって獲得し、私たちに与えてくださった最上の特権であり賜物ですから、私たちはもっと熱心に祈りをささげるべきでしょう。
2)人の目を気にして祈るのをやめなさい。
問題は祈りの心のありかたです。それが、人の目を気にしたものになってしまってはいないかどうかが問われています。「自分が祈っている姿」を見せることで、他の人の模範となるという意識は尊いものですが、そこからまた神との関係の歪みも起こり始めます。そういう歪みの根は取り去ったほうがいいのです。 イエス様は、誰の目を気にすることもなく、ただ神へと心を向けて祈る、祈りの集中を確保しなさいと教えてくださいます。
3)隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。
「自分の部屋」とは、パレスチナの農家にはどこにもあった農作物の貯蔵室で、窓もない小部屋のことです。自分でも自分が見えなくなるような、真っ暗な静かな部屋で祈るというイメージです。自己演出を施して塗り固めてきた自画像が、まるで見えなくなってしまう、そんな真っ暗な部屋で祈りなさい。そういう部屋を用意できなくても、誰の目も気にせず、自分自身の目さえも気にせずに祈ることができるならそれでいいのです。自分を見るのをやめる時、そこでこそ、本当の祈りがはじまります。それは闇の中での砕かれた罪人の祈りです。自分を全部投げ出して、そこにおられる神の憐れみにただすがりつく。そんな祈りの集中へと、イエス様は私たちを導いておられるのだと思います。
主の祈りを学ぶ② マタイ6:7-8より
🔴マタイによる福音書6:7-8(新p9)
「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものを ご存じなのだ。」
1)「異邦人のようにくどくどと祈ってはならない」
先週に続き、「主の祈り」に先立って教えられている、祈りの姿勢についてのイエスの教えに聴きます。「くどくどと祈ってはならない」、これは長い祈りを否定するものではありませんが、さながら祈りによって神を説得・脅迫するような異教的祈りへの警戒です。「主よ、我に助けを与えよ!!」との大胆な祈りは許されていますが、その大胆さは、祈りによって神を支配しようとする傲慢さと紙一重です。むしろ私たちに必要なことは、自分を神の支配(コントロール)の中に置くことです。神への完全な信頼の中で、自分の貧しい祈りや願いを超えていくことです。神は私たちの必要を、私たち以上に知っていてくださり、すべてを最善に備えてくださいます。この神への信頼における魂の自由と平安。それが祈りの本質です。イエス様は、そこへと私たちを招いておられます。
2)「願う前からご存じなのだ」
願う前から神は全部知っていてくださる、深い慰めです。でも、「それなら祈らなくてもいいじゃないか」と言いたくなるのも人情です。原理的に言えばそのとおりです。でもそれは、祈りの生活の豊かさや喜びをまだ知らない人の理屈でしょう。祈りを失った生活ほどさみしいものはありません。祈ることは、神の子らの特権であり、それ自体が恵みです。祈りは信仰の呼吸であり、祈らなければ信仰の生命は枯渇します。祈りとは何かを正しく把握し、ふさわしくこの手段を用いるなら、信仰は成熟します。
祈りとは、私たちの弱さのために、神が与えて下さった恵みの手段です。神様とのコミュニケーションを実感するための道具です。神はいつでも平安を用意してくださっているのに、私たちはすぐにそれを見失います。でも祈りの静けさが、それを思い出させてくれます。祈りは、神の子とされた喜びを実感する時です。いうなれば、祈ることで、神様とほんとうに親子になっていくのです。神様が 用意してくださった親しい交わりの中へと深まっていく。それが祈りなのです。
主の祈りを学ぶ③ 「主の祈り」の持つ力
🔴「ウエストミンスター小教理問答 問99:
神は、わたしたちの祈りの指針として、どのような規準を与え給うたか。
答:神の御言葉の全体は、祈りにおいて、わたしたちを指導するのに有益である。しかし、祈りの指針として有益な特別の規準は、通常、『主の祈り』と呼ばれている、キリストが弟子たちに教え給うた形の祈りである。」
1) 正しい祈りのための手本・道しるべとしての「主の祈り」
前回申し上げた様に、「祈り」とは本質的に際どい行為です。神へと思いを 集中しているはずが、気付けば自分の思いで一杯になってしまって、心から神を追い出しているということが起こりうる。ですから、自分勝手な祈りではなく、イエス様が与えてくださった「主の祈り」という正しい祈りの模範によって導かれる必要があるのです。
2)「主の祈り」の持つ3つの力
①祈りを変革する力 <最小公倍数にして、最大公約数の祈りとして>
ここには、私たちが祈るべきことのすべてが詰まっています。毎日これだけ 祈っていれば大丈夫だし、すべての祈りはここからの展開です。この祈りをよく理解し、この祈りに深まっていくと、私たちの祈りが変わります。そして祈りが変わると人間が変わります(逆もまた然り)。
祈りには、その人の信仰が全部見えます。その人が神とどのようなお付き合いをしているかが見えます。でも逆に言えば、適切な祈りの指導を受けることで、信仰者としての人格の成熟にも導かれます。だからこそ、「主の祈り」という 正しい手本・道しるべが必要なのです。間違った祈りを模範にすれば、私たちの神関係も、人間のありようも歪んでいってしまうのです。
②思考を変革する力 <神中心の祈りとして>
主の祈りの一番の特徴は、神中心であるということです。この祈りはそういう祈りとして、私たちの考え方を、がらっと変えさせる力をももっています。自分がどうしたいかから、神がどうなさりたいかを考えるように変えられていきます。
③生活を変革する力 <イエス・キリストが生きた祈りとして>
祈りが神中心になれば、行動も変わらざるを得なくなるものです。言行不一致がだんだん自分で気持ち悪くなってくる。これも祈りの力の一つだと思います。「主の祈り」の精神に生きたイエス様のように、自由に爽やかに生きられたら。
主の祈りを学ぶ④ 父よ
🔴「ハイデルベルク信仰問答 問26:『我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず』と唱える時、あなたは何を信じているのですか。
答:天と地とその中にあるすべてのものを無から創造され、
それらを永遠の熟慮と摂理とによって今も保ち支配しておられる、
わたしたちの主イエス・キリストの永遠の御父が、
御子キリストのゆえに、わたしの神またわたしの父であられる、
ということです。
わたしはこの方により頼んでいますので、
この方が体と魂に必要なものすべてをわたしに備えてくださること、
また、たとえこの涙の谷間へいかなる災いを下されたとしても
それらをわたしのために益としてくださることを、
信じて疑わないのです。
なぜならこの方は、
全能の神としてそのことがおできになるばかりか、
真実な父としてそれを望んでもおられるからです。」
1) 「主の祈り」の根底にある「父なる神への信頼」
「主の祈り」のはじまりは「父よ」との呼びかけです。聖なる全能の神、天地の創造者にして支配者である神に、「お父さん」と馴れ馴れしく呼びかけることが赦されているのは、ありえない恵みです。生まれながら「怒りの子(エフェソ2:3)」であったはずの私たちが、「神の子」とされるという驚くべき身分変更。これこそ救いであり、最大の慰めであると言っても過言ではありません。今や、神はあなたの父として、あなたのことをあなた以上に心配し、愛しておられる。決して悪いようにはなさらない。そんな父なる神を信頼しなさい。この信頼がなければ、どんな祈りであってもむなしい。だから、「父よ」と呼びかけることで、まず神が父でいてくださることを信頼するようにと、イエス様は教えてくれます。
2)お父さんは、必要なものを必ず与えて下さる
父が備えてくださるものに、意味のないものは一つもありません。苦難や悲しみも、父が子を鍛えるために与えてくださる試練なのだと、私たちは信じていい。そう信じることができるから、どんな災いが与えられようとも、私たちは絶望しません。必ずそこにはお父さんからの愛のメッセージがあるからです。
主の祈りを学ぶ⑤ 天にまします我らの父よ
🔴ハイデルベルク信仰問答 問120:なぜキリストはわたしたちに、神に対して「われらの父よ」と呼びかけるようにお命じになったのですか。
答:この方は、わたしたちの祈りのまさに冒頭において、わたしたちの祈りの土台となるべき、神に対する子どものような畏れと信頼とを、わたしたちに思い起こさせようとなさったからです。
言い換えれば、神がキリストを通してわたしたちの父となられ、わたしたちの父親たちがわたしたちに地上のものを拒まないように、ましてや神は、わたしたちが信仰によってこの方に求めるものを拒もうとなさらない、ということです。
1)「天」を見上げよ
イエス様は私たちの心を高く上げさせ、「地から天へ、人から神へ」と視線を転換させようとしておられます。自分の小さな狭い世界に閉じこもっていては、どうしても祈りが小さくなってしまう。しかし、父のおられる「天」へと思いを馳せれば、私たちの祈りの世界は確実に高く大きく広げられます。
🔴ハイデルベルク信仰問答 問121:なぜ「天にまします」と付け加えられているのですか。
答:わたしたちが、神の天上の威厳については、何か地上のことを思うことなく、その全能のご性質に対しては、体と魂に必要なことすべてを期待するためです。
2)「我ら」という視点を忘れない
「私の父よ」ではなく「我らの父よ」。私たちは孤独ではなく、声を一つにして「我らの父よ」と祈る、全世界の兄弟姉妹がいます。また私たちは、そんな 兄弟姉妹の「ために」祈ることも教えられています。「我らの父よ」と祈ることを通じて、互いに心を配りあい、互いに愛し合う修練を受けているのです。今痛んでいるすべての隣人とともに、「わたしたちの父」のもとに進み出ましょう。
🔴ウェストミンスター小教理 問100:主の祈りの序言は、私たちに何を教えていますか。
答:(「天にまします我らの父よ」という)主の祈りの序言が私たちに教えていることは、私たちを助ける力と志をもっておられる神に、全くきよい崇敬と 確信とをもって、父に対する子のように近づくこと、また、私たちが他の人々と共に、他の人々のために祈らなければならない、ということです。
主の祈りを学ぶ⑥ 御名をあがめさせたまえⅠ
🔴詩編115:1(旧約p955)
「わたしたちではなく、主よ、わたしたちではなく
あなたの御名こそ、栄え輝きますように。あなたの慈しみとまことによって。」
🔴詩編102:19(旧約p939)
「後の世代のために、このことは書き記されねばならない。
『主を賛美するために民は創造された。』」
1)神をあがめる心の失われた時代のために
「御名をあがめさせたまえ=御名があがめられますように」とは、「神様の お名前が特別に聖なる名として取り分けられ、ふさわしく尊重されますように」ということです。神を神としてふさわしくあがめる心の欠如した私たちが、第一に祈るべき祈りとして、イエス様はこの祈りを教えてくださいました。
2)すべての口が神を賛美する喜びの世界をイメージして
神を神として正しくあがめることの回復が、人間には必要です。本当に大切にすべき方を大切にしてこそ、人間は健やかであれる。私たちが神を賛美する喜びを知るようになる。それこそイエスが与える救いであり、人間本来の尊厳の回復です。だから、「賛美できるようにさせてください」と私たちも祈りましょう。
🔴ハイデルベルク信仰問答
問122: 第一の願いは何ですか。
答 「御名をあがめさせたまえ」です。
すなわち、
第一に、わたしたちが、あなたを正しく知り、
あなたの全能、知恵、善、正義、
慈愛、真理を照らし出す、そのすべての御業において、
あなたを聖なるお方とし、あがめ、
讃美できるようにさせてください、ということ。
第二に、わたしたちが自分の生活のすべて、
すなわち、その思いと言葉と行いを正して、
あなたの御名がわたしたちのゆえに汚されることなく、
かえってあがめられ讃美されるようにしてください、
ということです。
主の祈りを学ぶ⑦ 御名をあがめさせたまえⅡ
🔴子どもと親のカテキズム
問90: 「み名をあがめさせたまえ」では、何を祈り求めるのですか。
答: 私たちの生活のすべてを通して神さまの栄光があらわされ、すべての人が神さまのお名前をあがめ、ほめたたえるようになることを祈り求めます。
🔴マタイ福音書5:16(新約p7)
「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な 行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
1)神様の栄光があらわされますように。
「御名をあがめさせたまえ=御名があがめられますように」との祈りは、私たちが神様のすばらしさを証しすることができますようにとの祈りでもあります。神と共に生きる私たちの信仰の生き様を目撃した人たちが、神への賛美に導かれるように。そのために、どうかこの貧しい器を用いてくださいとの祈りです。
2)神の名を汚したくないから
そのように願いながらも、残念ながらむしろ、神様の偉大なお名前を汚してしまうような私たちです。でも神様は、「彼らの神」と呼ばれることを恥としないでいてくださり(ヘブライ11:16)、ザアカイの名を呼ばれたように、私たち 一人一人の名を大切に呼んでくださいます。だからこそ、私たちもこの神の名を汚さぬように、作り変えられていきたい。そのように祈り求めたいのです。
🔴ハイデルベルク信仰問答 問122: 第一の願いは何ですか。
答 「御名をあがめさせたまえ」です。 すなわち、
第一に、わたしたちが、あなたを正しく知り、
あなたの全能、知恵、善、正義、
慈愛、真理を照らし出す、そのすべての御業において、
あなたを聖なるお方とし、あがめ、
讃美できるようにさせてください、ということ。
第二に、わたしたちが自分の生活のすべて、
すなわち、その思いと言葉と行いを正して、
あなたの御名がわたしたちのゆえに汚されることなく、
かえってあがめられ讃美されるようにしてください、
ということです。
主の祈りを学ぶ⑧ 御国を来たらせたまえⅠ
🔴ペトロの手紙Ⅱ3:13(新約p439)「しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」
🔴ヨハネ黙示録21:1~4(新約p477)
「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って 行き、もはや海もなくなった。・・・そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、 人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
1)神の王国が完成しますように。
「御国が来る」とは「神の王国の完成」の希望です。神がすべてにおいてすべてとなる、愛と平和と安息に満ちた世界の到来です。その時には、地上にのさばるサタンの支配が打ち破られて、私たちは完全に罪から自由になるのです。すべての人が神の愛に心満たされて、争いも、貧困も、病も、死の恐怖もない。みなで心を一つにして神を賛美して、永遠の命の喜びに生きるのです。
2)必ず実現するとの希望をもって
これは必ず実現するという神の約束であり、その完成に向かって神の国建設は既にはじまっています。ここに私たちの究極的・最終的な希望があります。この希望において雄々しく立ち、確信の中で祈って待つ。それが「御国が来ますように」という祈りの姿勢です。私たちの祈りを通して、必ず新しい朝が明け染めます。
🔴ハイデルベルク信仰問答 問123: 第二の願いは何ですか。
答 「み国を来らせたまえ」です。 すなわち、
あなたがすべてのすべてとなられる御国の完成に至るまで
わたしたちがいよいよあなたにお従いできますよう、
あなたの御言葉と聖霊とによって
わたしたちを治めてください、
あなたの教会を保ち進展させてください、
あなたに逆らい立つ悪魔の業やあらゆる力、
あなたの聖なる御言葉に反して考えだされる
すべての邪悪な企てを滅ぼしてください、ということです。
主の祈りを学ぶ⑨ 御国を来たらせたまえⅡ
🔴ペトロの手紙Ⅱ3:12-13(新約p439)「神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、溶け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」
🔴ルカによる福音書17:20~21(新約p143)
「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
1)私たちのいるところが、神の国になりますように
神の愛と義に満たされた永遠の「神の国=神の支配」は、いまだ完成していません。でもそれはもうすでに、今ここに始まっている、霊的な現実でもあります。一人一人の心の中で、あるいは二人または三人が集うところで、愛が育まれ、 喜びの歌が歌われ始めるなら、そこが神の国となるのです。「御国を来たらせ給え」とは、「わたしたちの周囲に、Kingdom Change を起こしてくださって、神の国の建設を前進させてください」という祈りでもあります。
2)一人の人から始まる Kingdom Change
この祈りが叶えられる時には、まず真っ先に私たち自身の内にChangeが与えられます。神がこの心を支配してくださり、この罪深い心に、神の愛と義と平和をどんどん注いでくださって、だんだんと満たされ、あふれだすのです。すると今度は私たちの周囲にもChangeが始まります。家族や友人が、さらには地域社会や学校や会社が、変えられていきます。それは一人の変化から始まるのです。
🔴ハイデルベルク信仰問答 問123: 第二の願いは何ですか。
答 「み国を来らせたまえ」です。 すなわち、
あなたがすべてのすべてとなられる御国の完成に至るまで
わたしたちがいよいよあなたにお従いできますよう、
あなたの御言葉と聖霊とによって
わたしたちを治めてください、
あなたの教会を保ち進展させてください、
あなたに逆らい立つ悪魔の業やあらゆる力、
あなたの聖なる御言葉に反して考えだされる
すべての邪悪な企てを滅ぼしてください、ということです。
主の祈りを学ぶ⑩ 御心がなりますように
1)御心が地になる=神の国の完成、罪のない世界の到来
「御心」とは「神様の意志、決意、気持ち、思い、願望、要望、命令・・・」です。その御心が、天におけるように地の上にも完全になされるとは、罪の邪魔が入らないということです。私たちの罪が引き起こすあらゆる障害、あらゆる抵抗がなくなって、神の願っているとおりに世界が動き出すという、罪のない世界の完成=天の国の到来です。だから、「御国が来ますように」と「御心が地になりますように」とは二つでひとつの祈りです。
🔴ハイデルベルク信仰問答 問124: 第三の願いは何ですか。
答 「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」です。
すなわち、
わたしたちやすべての人々が、
自分自身の思いを捨て去り、
唯一正しいあなたの御心に、
何一つ言い逆らうことなく
聞き従えるようにしてください、
そして、一人一人が自分の務めと召命とを、
天の御使いのように
喜んで忠実に果たせるようにしてください、 ということです。
2)自分自身の思いを捨て去って
私たちは、自分を正当化するために、色んな理屈をつけては神の御心を無視し、歪め、ねじまげて、自分自身の思いを絶対化しようとする罪深さを抱えています。ですから、そんな「自分中心」の思いを捨て去って、神の御心に聴き従うことができるように、この貧しい存在全体を、神に作り変えてもらわねばどうしようもありません。だから祈って求めるのです。人間本来の尊厳に輝く、生き生きとした信仰の命に導いてくださる、神の恵みの思いにすがって、御心をなさせてくださいと切に祈るのです。
まことに、神の御心を妨げてばかりの私たちです。神のご意志に従っていくためには、主の助けを祈るよりありません。祈るしかない自分を認めるのは、私たちにとって悔い改めのはじめです。そうして私たちが砕かれていくなら、この私のうちに確かに神の支配がはじまります。
主の祈りを学ぶ⑪ 今日の糧を与えてください
🔴出エジプト記16:17-22(旧p120)(※ 荒野でマナが与えられる場面)
「・・多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた。・・彼らは朝ごとに必要な分を集めた。」
🔴箴言30:7~9(旧p1030)
「貧しくもせず、金持ちにもせず/わたしのために定められたパンで/わたし
を養ってください。 飽き足りれば、裏切り/主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き/わたしの神の御名を汚しかねません。」
🔴詩編37:16-18(旧p869)
「主に従う人が持っている物は僅かでも/主に逆らう者、権力ある者の富にま
さる。主はご自分に逆らう者の腕を折り、従う人を支えてくださる。無垢な人
の生涯を主は知っていてくださる。彼らはとこしえに嗣業をもつであろう。」
「糧」というのは、食糧であり、今日の私の生活に必要なすべてのものです。ポイントは「今日の分」というところです。「今日必要な分を、今日ふさわしく与えてください」という祈りです。魂の自由のためには、多すぎても少なすぎても駄目なのであって、ちょうどいい時に、ちょうどいいだけ与えてもらうのが 一番いいのです。神は、主に従う人の生涯をいつくしんで祝福し、生活の必要を必ず備えてくださって、その魂を永遠の命まで確実に導いてくださいます。
🔴ハイデルベルク信仰問答 問125: 第四の願いは何ですか。
答 「われらの日用の糧をきょうも与えたまえ」です。
すなわち、
わたしたちに肉体的に必要なすべてのものを備えてください、
それによって、わたしたちが、
あなたこそ良きものすべての唯一の源であられること、
また、あなたの祝福なしには、
わたしたちの心配りや労働、あなたの賜物でさえも、
わたしたちの益にならないことを知り、
そうしてわたしたちが、
自分の信頼をあらゆる被造物から取り去り、
ただあなたの上にのみ置くようにさせてください、 ということです。
主の祈りを学ぶ⑫ われらの糧を与えてください
前回に続いて「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りを深掘りします。今日注目するポイントは「われらの」というところです。
「私の糧」ではなく「私たちの糧」を求めよと教えられていることを大事にしましょう。たとえ自分自身は飽き足りるほどに与えられているとしても、困窮している兄弟姉妹や、世界中の貧しい人・飢える人々と共に、彼らのために、「私たち」の今日の糧を与えてくださいと祈ることへと私たちは招かれています。また、この祈りの実現のために、私の富を用いてくださいとの意識をも、主は呼び覚まそうとしておられます。
そのように「われらの」という祈りの視野が開かれるならば、今、自分に与えられている豊かな生活に対する感謝が、自ずと沸き起こってくるはずです。だから最後に覚えたいのは、「感謝」です。私たちはこの祈りを祈るたびに、神の祝福を心から感謝し、存分に味わわせていただくということを、思い起こしたいものです。今日の食事、今日の生活に、細やかな仕方でちりばめられている神の祝福の一つ一つに、もっと心震わせて、感動して、喜び楽しむのです。
神への感謝をこめて、与えられた糧を目いっぱい喜び楽しむことによって、 神を賛美し、神の祝福を目いっぱい喜び楽しむ。これこそあのウェストミンスター小教理第1問に示された、「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶ(=エンジョイする)」という、私たちの「おもな目的」にかなった生き方なのです。
【共に祈りましょう】
神よ、あなたこそよきものすべての源であり、あなたの祝福がなければ、私たちは一時も生きていることはできません。私たちはあなたに信頼します。私たちに必要な糧を、今日も与えてください。今週も、私たちの生活にあなたの祝福を満たしてください。私だけではなく、私たちの必要を満たしてください。世界中の貧しい方々、飢えた方々に、必要な糧が備えられますように。そのために、私に与えられた糧をも用いてください。
主よ、あなたに感謝することの少ないものです。私たちの霊の目を開いてくださって、今週の私たちの歩みにちりばめられている、あなたの祝福を豊かに見て取ることができるようにしてください。そしてわたしたちが、あなたの祝福を、思い切り喜び楽しむことができますように。
主の祈りを学ぶ⑬ われらの罪を赦してくださいⅠ
第五の祈りのポイントは「負い目を赦してください」という願いに、「わたしたちも自分に負い目がある者を赦しましたように」という付け足しがあることです。「神様から赦される」ということと「私たちが誰かを赦す」ということは、分かちがたく一つに結びついています。赦されている者は赦す者でもあり、赦す者は赦されている者でもある。赦された喜びをよく知っている者ならば、必ず赦すことへと向かう。これがイエス様の確信であり、また願いです。私たちみなが、赦された者として、赦すことに向かってほしいと願っておられるのです。
私たちには、赦されることも、赦すことも、両方ともが絶対に必要です。 そこに私たちの魂の救いがあるのです。だから、赦され赦すという一つの流れの中に、自分も入ることができるように、この祈りを祈りなさいと主は教えてくださいました。この祈りを祈るごとに思い出すようにと。
🔴エフェソの信徒への手紙4:31-32(新p357)
「・・・互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦しあいなさい。」
🔴コロサイの信徒への手紙3:12-13(新p371)
「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、・・・
互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたが
たを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」
🔴マタイによる福音書18:21-35(新p35) 仲間を赦さない家来のたとえ
「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」
🔴ハイデルベルク信仰問答 問126: 第五の願いは何ですか。
答 「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるした
まえ」です。すなわち、
わたしたちのあらゆる過失、
さらに今なおわたしたちに付いてまわる悪を、キリストの血のゆえに、
みじめな罪人であるわたしたちに負わせないでください、
わたしたちもまた、
あなたの恵みの証をわたしたちの内に見出し、
わたしたちの隣人を心から赦そうとかたく決心していますか、
ということです。
主の祈りを学ぶ⑭ われらの罪を赦してくださいⅡ
第五の祈りの言葉のポイントは「わたしたちも自分に負い目がある者を赦しましたように」という付け足しです。ここから明らかなのは、「神様から赦される」ということと、「私たちが誰かを赦す」ということは、分かちがたく一つに結びついているということです。赦されている者は赦す者でもあり、赦す者は赦されている者でもある。この両方は、絶対に分けて考えることができないのです。
私たちみなが、赦された者として、赦すことに向かってほしいと主は願っておられます。しかしそんな主の願いに対し、私たちの内なる罪は抵抗します。「赦す」ということは本当に難しいと、皆さんも経験しておられることでしょう。
私たちにとって、この祈りは本当に重い祈りです。でも主は、この祈りから逃げてはいけないと、示しておられます。私たちには、赦されることも、赦すことも、両方ともが絶対に必要です。そこに私たちの魂の救いがあるのです。
どうしても誰かのことが赦せない・・・、そんな方もいらっしゃるでしょう。 ならばそのままでいいから、とにかく逃げないで、神の前に出て祈るのです。この憎しみに縛られた惨めな自分を、どうか赦してくださいと。十字架の主の赦しの愛が、必ずすべてを癒してくれます。
🔴ルカによる福音書6:37(新p113)
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」
🔴ローマ12:19(新p292)「復讐せず、神の怒りに任せなさい。」
🔴ハイデルベルク信仰問答 問126: 第五の願いは何ですか。
答 「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるした
まえ」です。すなわち、
わたしたちのあらゆる過失、
さらに今なおわたしたちに付いてまわる悪を、キリストの血のゆえに、
みじめな罪人であるわたしたちに負わせないでください、
わたしたちもまた、
あなたの恵みの証をわたしたちの内に見出し、
わたしたちの隣人を心から赦そうとかたく決心していますか、
ということです。
主の祈りを学ぶ⑮ 悪より救い出したまえⅠ
主の祈りの最後は「われらを試みにあわせず悪より救い出したまえ」です。「試み」とは罪に誘う甘い誘惑でもあり、信仰を揺さぶる厳しい試練でもあります。いずれにしろそれは、わたしたちを神から引き離そうとする「悪魔の試み」です。主の祈りにおける「悪」とは、この世を支配する悪魔のことです。神を信じ、神の言葉にしたがってまっすぐに生きようとする者たちを、転げさせ、歪めさせ、外れさせようとするために悪魔は激しい攻撃をしかけてきます。
悪魔の特徴を学び、戦いに備えましょう。
① 悪魔は、神の栄光を傷つけようと必死です。そのために、神を礼拝する者たちをねらってきます。神を礼拝しようとする者たちが、礼拝しなくなること、それが神様を一番悲しませるということをよく知っているからです。
② 悪魔は、神様に嫉妬しています。神のように礼拝されたいと願っているのです。ですから私たちを悪魔礼拝に誘います。力や金を信じ、快楽を求め、悪の道に身をゆだねることのすばらしさを宣教し、「悪魔の福音」を広げようとしています。
🔴Ⅰペトロ4:12(新p433)「愛する人たち、あなたがたを試みるために身に 降りかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、 驚き怪しんではなりません。」
🔴ハイデルベルク信仰問答 問127: 第六の願いは何ですか。
答 「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」です。
すなわち、
わたしたちは自分自身あまりに弱く、
ほんのひととき立っていることさえできません。
その上わたしたちの恐ろしい敵である、
悪魔やこの世、また自分自身の肉が、
絶え間なく攻撃をしかけてまいります。
ですから、どうかあなたの聖霊の力によって、
わたしたちを保ち、強めてくださり、
わたしたちがそれらに激しく抵抗し、
この霊の戦いに敗れることなく、
ついには完全な勝利を収められるようにしてください、
ということです。
主の祈りを学ぶ⑯ 悪より救い出したまえⅡ
主の祈りの最後は「われらを試みにあわせず悪より救い出したまえ」です。 「試み」とは罪に誘う甘い誘惑でもあり、信仰を揺さぶる厳しい試練でもあります。いずれにしろそれは、わたしたちを神から引き離そうとする「悪魔の試み」です。主の祈りにおける「悪」とは、この世を支配する悪魔のことです。神を信じ、神の言葉にしたがってまっすぐに生きようとする者たちを、転げさせ、歪めさせ、外れさせようとするために悪魔は激しい攻撃をしかけてきます。
しかし、そのような悪魔の試みに打ち勝たれた方がいます。イエス様です。マタイ4:1からの三つの試みの場面において、父なる神への徹底的な信頼の姿勢を貫いて、霊的戦いに勝利されました。あらゆる試練を味わわれた方であるイエス様が、私たちのかたわらで必ず支えてくださいます。必ず打ち勝たせてくださいます。
そんな確信に支えられながら、そして試みと戦う覚悟を持って、主よ、打ち勝たせてくださいと共に祈りを合わせましょう。
🔴Ⅰコリント10:13(新p312)「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練にあわせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
🔴ハイデルベルク信仰問答 問127: 第六の願いは何ですか。
答 「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」です。
すなわち、
わたしたちは自分自身あまりに弱く、
ほんのひととき立っていることさえできません。
その上わたしたちの恐ろしい敵である、
悪魔やこの世、また自分自身の肉が、
絶え間なく攻撃をしかけてまいります。
ですから、どうかあなたの聖霊の力によって、
わたしたちを保ち、強めてくださり、
わたしたちがそれらに激しく抵抗し、
この霊の戦いに敗れることなく、
ついには完全な勝利を収められるようにしてください、
ということです。
主の祈りを学ぶ⑰ 栄光はただ神にあれ
主の祈りの結びの部分は聖書には存在しません。しかし、主の祈りの締めくくりにぴったりですから、古くから教会で定着してきました。大いなる父なる神への賛美と頌栄、また全き信頼をもって祈りを終えることへと導いてくれます。そしてこれは、聖書が教えている祈りの精神と一致しているのです。
🔴歴代誌上29:10-14(旧p669)「ダビデは全会衆の前で主をたたえて言った。『わたしたちの父祖イスラエルの神、主よ、あなたは世々とこしえにほめたたえられますように。偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。富と栄光は御前にあり、あなたは万物を支配しておられる。勢いと力は御手の中にあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる。・・・・・わたしなど果たして何者でしょう、わたしの民など何者でしょう。すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。」
🔴ハイデルベルク信仰問答
問128: あなたはこの祈りを、どのように結びますか。
答 「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり」
というようにです。
すなわち、
わたしたちがこれらすべてのことをあなたに願うのは、
あなたこそわたしたちの王、またすべてのことに力ある方として、
すべての良きものをわたしたちに与えようと欲し、
またそれがおできになるからであり、
そうして、わたしたちではなく、あなたの聖なる御名が、
永遠に賛美されるためなのです。
問129: 「アーメン」という言葉は、何を意味していますか。
答 「アーメン」とは、それが真実であり確実である、ということです。
なぜなら、これらのことを神に願い求めていると、
わたしが心の中で感じてるよりもはるかに確実に、
わたしの祈りはこの方に聞かれているからです。