⑪「聖霊によって生まれた方」を信じる

 

1)神の救いの介入を知らせるサプライズ 

  使徒信条には「主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ」と言われます。これは、神に等しい永遠の神の御子が、人間本来の尊厳を備えた「真の人間」として、人間の胎から生まれてこられたということを表す信仰告白です。 

  それは、「聖霊」による誕生でした。つまり、ふつうの人間とはまったく違う、一回きりの特別な仕方で、人間の罪の影響を受けないで生まれてこられるように、神の手が働いたということです。「おとめ(処女)」がはらんだという特別なサプライズで、「今まさに、私はあなたがたのために手を差し伸べたのだよ」ということを、神様が分かりやすく教えてくださっています。 

 

2)人間の弱さを知り、人間の弱さに打ち勝たれたイエス様 

  イエス様は、私たちと同じ人間となって、罪の世に生きる苦悩や痛みさえも味わわれました。死の恐怖をも味わわれました。讃美歌532番2節の歌詞を思い出します。「主の受けぬこころみも、主の知らぬ悲しみも、うつしよにあらじかし、いずこにもみあと見ゆ。(主イエスのお受けにならなかった苦しみも、主のご存じない悲しみも、この世にはありません。どこにいっても、その足跡を見るのです。)」 

  でも主は、私たちと同じように弱く惨めな一生を送られただけではありません。私たちにはできないことを、イエス様はしてくださいました。死んでよみがえり、「死」を打ち砕き、あらゆる悲しみと恐怖から私たちを解き放ってくださいました。 

 

●新約聖書 ヘブライ人への手紙2:14-18(リビングバイブルの翻訳で) 

「神様の子どもである私たちは、血も肉もある人間です。そこでイエス様も、血肉を持った人間の姿でお生まれになりました。それは、人間として死ぬことにより、死の権力をふるう悪魔の力を打ち砕くためです。これだけが、死を恐れて、一生涯、恐怖の奴隷となっている人々を、救い出す方法だったのです。私たちは、イエスが天使としてではなく、一人の人間、一人のユダヤ人として来られたことを知っています。イエスは、あらゆる点で、兄弟である私たちと同じになることが必要だったのです。そうして初めて、イエスは、私たちにとってはあわれみ深く、神にとっては忠実な大祭司として、私たちの罪を取り除くことができたのです。自ら試練と非情な苦しみを体験された主イエスだからこそ、試練にあえいでいる私たちを助けることがおできになるのです。」 

 

 

⑫「苦しみを受けられた主」を信じる

  

ハイデルベルク信仰問答37問 

問:『苦しみを受け』という言葉によって、あなたは何を理解しますか。 

答:キリストがその地上でのご生涯のすべての時、とりわけその終わりにおいて、 全人類の罪に対する神の御怒りを体と魂に負われた、ということです。それは、 この方が唯一の償いのいけにえとして、御自身の苦しみによってわたしたちの 体と魂とを永遠の刑罰から解放し、わたしたちのために神の恵みと義と永遠の命 とを獲得してくださるためでした。 

 

1)「苦しみ」のご生涯 

  イエス様はさみしい馬屋で生まれ、貧しさ、疲れ、生きる苦悩を知り、人々から受け入れられない孤独を味わわれました。その苦難の生涯は、 十字架へと向かう苦しみの道に集約されます。罵声を浴び、唾を吐かれ、鞭打たれ、弟子たちに捨てられ、重い十字架を自ら運ばれました。なぜそれほどに苦しまねばならなかったのか。それは、わたしたちのためでした。私たちの救いのために、主は全身全霊で神の怒りを引き受けてくださったのです。 

2)ポンテオ・ピラトの弱さを抱える私たち 

  ポンテオ・ピラトは、イエス様の無実を知りながら、十字架刑に定めました。ユダヤ人のおどしに屈したからです。自己保身のために、長いものにまかれるようにして、無実の人をも見殺しにする。とても卑怯なことです。でも、私たちの内にも、そんなピラトがいないでしょうか。主は、
そんな私たちのみにくい罪をも全部引き受けてくださって、「苦しみを
受け」て死んでくださったのです。 

3)苦しみの足跡に続いていく 

  イエス様の苦しみの生涯は、私たちの模範です。キリストのように生きたいと願うなら、苦しみは避けられません。でも、主の足跡に自分の足を重ねるたびに、 我がために苦しんでくださったキリストの愛が、いよいよ深く心に迫ってきます。 

 

●新約聖書 ペトロの手紙Ⅰ1:18―23(新p431) 

「・・・不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて 苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。・・・善を行って苦しみを 受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを 受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。」 

 

 

⑬「十字架につけられた主」を信じる

  

 

1)私たちの身代わりに、神から呪われたイエス様 

  十字架刑というのは、当時のローマ帝国における最も残酷な処刑方法だったと言われます。しかしユダヤの地においてはそれ以上に、「神から呪われた死」として意味づけられました。十字架にかけられる=木にかけられるということは、神から呪われている、ということです。愛して、受け止めて祝福してくださるはずの神様から、拒まれ見捨てられ地獄に落ちろと呪われるという、人類の誰も味わったことのない絶望を、イエス様は味わわれました。それは、私たちのためでした。私が受けるべき呪いを、引き受けてくださったのです。 

●新約聖書 ガラテヤ書3:13(新p345) 

「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の 呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。」 

 

2)十字架に示された神の愛、神の救い 

  十字架の上のイエス様の悲惨なお姿の内に、神の御前での罪人としての私たち自身の本当の姿が映し出されています。それをよく見なくてはいけません。見るのがつらくても、目を背けずに十字架をはっきり見なくてはなりません。見上げない限り、神の愛もまた見えないからです。 

  十字架は、神の裁きの横棒と、愛の縦棒とでなっています。横の線は、上にいる神と下にいる人間とを隔てる断絶の線として、怒りと呪いを示します。でもその呪いの横線を貫いて、神から人間へと至る愛の縦線が引かれます。その愛は、私たちの滅びを望まぬ神の愛です。この神の愛ゆえに、本当ならば私たちが受けるべき苦しみが、イエス・キリストに全部背負わされた。それが十字架の福音です。だから「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。(Ⅱコリント5:20-21)」 

●旧約聖書 エゼキエル書33:11(旧p1350) 

「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。 イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」 

 

 

⑭「死の意味を変えられた方」を信じる

1)イエス様の「死」の意義 

  イエス様が「死にて葬られた」ということもまた、私の救いに深く関係します。主は私たちと同じように死なれました。そこまで同じになってくださいました。しかしイエス様の死には、私たちと違う特別な意味もありました。ご自分の死と復活によって、悪魔の持つ死の力を打ち破ってくださったのです。 

  ●新約聖書 ヘブライ書2:14-15(新p403) 

「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」 

 

2)もはや、「死んだら終わり」ではない 

  そうしてイエス様は、「死の恐怖」に縛られている私たちの窮屈な魂を、解放してくださいました。死ぬことを恐れるかどうかは個人差があります。しかし「死んだら終わりだ」という考えにとらわれている点では、みんな同じではないでしょうか。死んだら終わりだと考えだしたら、生きることも空しくなる、自分が生きてきたことの意味も分からなくなる。そんな人がたくさんいる。 

  しかしイエス様は、死を滅ぼして新しい命の道を開いてくださいました。だから私たちは、もう死んで終わりではありません。その考えには支配されません。そうではなく、今や私たちにとって、死の意味が変わったのです。死は今や、希望への入り口なのです。そしてそうであるからこそ、生きることをもっと喜びたいのです。死の恐怖から解放された者として。 

●改革派教会60周年宣言より「信者にとっての死の意味」 

「わたしたち信者にとって肉体の死は、罪と悲惨、この世の労苦と涙からの完全な解放、キリストのみもとに召してくださる神の愛のしるし、永遠の命のより豊かな祝福への入り口です。しかし、今なお罪と弱さを持つわたしたちは、死を前にして恐れさえ抱く者です。死は、人生の最後の試練です。わたしたちは、復活の希望と慰めのゆえに、死を覚えてますます 謙遜になり、いっそう堅くキリストにより頼み、賜物としての日々を感謝して歩みます。」 

 

 

⑮「陰府に下られた方」を信じる

1)死者の世界に下っていかれたのか??

使徒信条の中でも「陰府にくだり」は難解で、解釈を巡って議論が尽きません。「陰府(よみ)」とは、ヘブル語の「シェオール」のことです(詩篇6:6など)。 そこは死者の霊魂のおもむく地下の領域です。十字架で死なれ墓に葬られてから、復活なさるまでの三日間、イエス様はその死者の世界・地獄にまで下っていかれ、不従順であった者たちに福音を伝えられたのだと考える人もいます(Ⅰペテロ3:19などを論拠として)。しかし聖書的根拠が薄いので、賛同はしかねます。

 

2)もはや、地獄の苦しみはない

大切なのは、私たちに分かる範囲で恵みを受け取らせていただくことです。イエス様が死者の世界・地獄に行かれたのかどうか、そこで何をされたのか、そういうことは分かりません。でもわたしたちが知っているのは、 イエス様が私たちのために、「神から引き離され、見捨てられた」という地獄の苦しみを、すでに地上において味わってくださったということです。彼が受けた苦しみによって、私たちは救い出されました。地獄のような不安や恐れを味わう、最も厳しい試練の時が、私たちの人生にもあるでしょう。 しかし「たとい地獄を味わっても、主はそこにおられます。そして、主が共におられるなら、そこはもはや地獄ではないのです。(吉田隆)」

 

●ハイデルベルク信仰問答 44問

「問:なぜ、「陰府にくだり」という言葉が続いているのですか。

答:わたしの主キリストが、十字架においても、それまでの御生涯においても、その魂において忍ばれた、名状しがたい不安、苦しみ、恐れによって、地獄の不安と苦しみから、わたしを救い出して下さったということを、わたしが最も厳しい試練の中にあるときにも、確信するためであります。」

●新約聖書 ルカ福音書22:39-46(新p155)

「・・『父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。』すると、 天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」

 

 

⑯「よみがえられた方」を信じる

1)キリストのよみがえりこそ、最も大切なこと 

  イエス・キリストのよみがえりは、単なる蘇生ではなく、当然ゾンビでもなく、まったく新しい栄光の体で立ち上がられた、命の勝利です。このよみがえられた主が、今も生きておられると私たちは信じます。これがキリスト教信仰の核心です。 

●新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ15:3-4(新p320) 

「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、・・また、三日目に復活したこと・・」 

●新約聖書 ローマの信徒への手紙10:9(新p288) 

「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」 

●新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ15:14(新p320) 

「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」 

 

2)信じない者ではなく、信じる者になりなさい。 

  しかし、そんな荒唐無稽なことは信じられない、でっちあげだ、嘘だと昔から言われ続けてきました。でも、この復活のイエスとの出会いによって、弟子たちはまったく別人のように変えられたということは否めません。彼らは人知を越えた神の希望に触れたから、死をも恐れぬ伝道者に生まれ変わりました。 

  トマスのように信じられない人もいるでしょう。でも主は「信じる」ことへと 招いています。「見ないで信じるあなたがたに祝福があるように。私は生きている。あなたは私の命に結ばれている。希望を失ってはいけない。私は復活した」と。 

●新約聖書 ルカ福音書22:39-46(新p155) 

「ペトロとほかの使徒たちは答えた。人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。」 

●新約聖書 ヨハネ福音書20:27-29(新p210) 

「『・・信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。イエスはトマスに言われた。 『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。』」 

 

 

 

⑰「天に昇られた方」を信じる

 

1)天は遠くない 

  死者の中からよみがえられたイエス様は、その後40日にわたって弟子たちと共に過ごし、神の国について教えてくださいました。しかしその後、イエス様は天に昇って行かれます。天というのは、空間的に宇宙の果てにある場所ではありません。天は、私たちが生きる地上とは違う、時間と空間を超えた世界、神がおられる永遠の世界。そこに帰っていかれました。これ以降、この地上においてはお会いできない、イエス様との別れの場面です。でも弟子たちは寂しそうではなく「大喜びした」とあります。お姿は見えなくても、前よりもイエス様を近くに覚えていたのではないかと思います。天というのは遠くありません。実は私たちのすぐ近くにあります。私たちには開けなかった「天へのドア」を、主が開いてくださいました。だから私たちも今や、いつでもどこでも、天に通じているのです。 

●新約聖書 ルカ福音書24:50-53(新p162) 

「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」 

 

2)大祭司として、私たちを祝福し続けてくださるイエス様 

  イエス様は両手を上げて祝福しながら、弟子たちから離れていかれました。それは古来より礼拝において繰り返されてきた大祭司の祝福でした。そして 今もイエス様は大祭司として執り成し、祝福を続けていてくださいます。今やこの地上のすべては、大祭司イエスの祝福の両手の下に置かれています。その広げられた両手には、私たち人間の罪のゆえに、十字架の傷が残っています。でもその両手を広げて、私たちの過ちだらけの生涯を赦してくださり、憐れみ、祝福してくださっているのです。 

●旧約聖書 民数記6:22-27(旧p221) 

「・・アロンとその子らに言いなさい。あなたたちはイスラエルの人々を祝福して、次のように言いなさい。主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けてあなたに平安を賜るように。彼らがわたしの名をイスラエルの上に置く時、わたしが彼らを祝福するであろう。」 

 

 

 

⑱「神の右に座し給う方」を信じる

  1)神の右の座での執り成し 

  天に昇られたイエス様は、今や神の右に座しておられます。これは、神様から 全権をゆだねられてすべてを支配しておられる、ということを表す表現です。 

  そしてそこでイエス様は、私たちのための執り成しをしていてくださいます。 今日も、私たちはたくさんの間違いを犯します。いや、この罪人の存在そのものが間違いであります。でも、この間違いだらけの私を、「赦してやってください」と父に執り成してくださっているキリストのゆえに、今日も私たちは神から赦され、生かされ、愛されているのです。 

●新約聖書 ローマの信徒への手紙8:34(新p285) 

「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成していてくださるのです。」 

 

2)神の右の座での支配、王の王キリスト 

  神の右に着座しておられるイエス様は、全宇宙を支配する王の王です。十字架の死という低さの極みまで下られた主は、復活させられ、高さの極みである神の右の座へと上げられました。この王の王が、教会の頭として、ご自分の体である教会を力で満たしていてくださいます。このキリストの守りを信じるがゆえに、キリストの教会は、この世の支配者に屈することありません。 

  教会の歴史の中で、地上の権力に教会が迫害されたピンチの時は、何度だってありました。しかし、キリストの教会を消し去る事のできた者は一人も存在しません。神の右に座す王の王の命に、教会は満たされているからです。 

●新約聖書 エフェソの信徒への手紙1:19―23(新p353) 

「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、このキリストを死者の中から復活させ、天においてご自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」 

 

 

 

⑲「再び来られる主」を信じる

  1)全人類を待ち受ける最後の審判 

  神が終わりをもたらし給う時、新天新地が到来し、神の国が完成します。その時キリストが天より再び降り給うて(再臨)、最後の審判の審判者となられます。 そして、これまでこの地上に生きて死んでいった、人間という人間がすべて引き出され、ふるい分けられます。ヨハネ5:27ー29、使徒10:42、Ⅰペトロ4:5。 

 

2)キリスト者の究極の希望としての主の再臨 

  その最後の審判は、神に背き続けた罪人にとっては恐るべき時。永遠の刑罰に投げ込まれる時。でも、キリストを信じて従ってきた者たちにはそうではなく、イエス様によって天の喜びと栄光の中へと迎え入れていただく喜びの時。キリスト者にとって、審判者イエスの再臨は究極の希望であり、現在の信仰の戦いを支える力の源です。困難な時代にも、この再臨の希望に堅くとどまって、信じた道を全うしなさいと聖書は繰り返し教えてくれます。主は再び来られ、必ずすべての涙をぬぐってくださる。だから、天を見上げて歩みなさいと。 

●テモテへの手紙Ⅱ4:1(新p394) 

「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」 

●フィリピの信徒への手紙3:17―21(新p365) 

「・・・キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」 

 

 

 

⑳「聖霊」を信じるⅠ

1)「そばに来てくださる方」である聖霊 

  「聖霊、Holy Spirit」は、得体のしれない幽霊(ゴースト)でも、森の精・水の精などの精霊でもなく、御父と御子に等しい永遠の神様です。聖霊は自らお語りにならないのでミステリアスなお方ですが、イエス様が天へと移動されて後、代わって遣わされる「別の弁護者:パラクレートス」です。イエス様が弟子たちにそうされたように、聖霊は私たちのそばにいて、慰め、助け、弁護してくださる方です。イエス様に代わって、あらゆる時代に、あらゆる場所で、信じる人の心の中に生きる、別の形のキリストと言っていい方です。 

●ヨハネによる福音書14:16-17(新p197) 

「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」 

 

2)聖霊は、このわたしにも与えられている 

  聖霊のことを考える時には、ハイデルベルク信仰問答の53問が不可欠です。特に、特に覚えてほしいのは、「この方はわたしに与えられたお方でもあり」というところです。この言葉は、「こんな私にも聖霊が与えられている。この弱い私の内にも聖霊は生きていてくださる」との信仰を表したものです。キリストを信じるクリスチャンは、肉のままの古い人ではなく、聖霊をいただいた新しい人です。聖霊が、あなたに信仰を与え、キリストに結びつけて下さいます。 

  こんなダメな自分の内にも、本当に聖霊が生きていてくださるのか?と思うかもしれません。でも、そういう悔い改めの思いが起こされていることが、 すでにあなたの内に聖霊が生きて働いていてくださる証拠なのです。 

●ハイデルベルク信仰問答 第53問 

「問:「聖霊」について、あなたは何を信じていますか。 

答:第一に、この方が御父や御子と同様に永遠の神であられるということ。 

第二に、この方はわたしに与えられたお方でもあり、まことの信仰 

によって、キリストとそのすべての恵みにわたしをあずからせ、わた 

しを慰め、永遠にわたしと共にいてくださる、ということです。」