2020712日出エジプト3457、ローマ246

「堪忍袋の緒が切れる前に」

 

今日の御言葉を覚えながら心に浮かんできたのは「怒ること遅い」という言葉です。これは聖書に独特な言葉遣いだと思うが、どこにあったかな?と改めて調べてみると、実はわずかな用例しかありません。口語訳の詩編1038、新共同訳のヤコブ119といったところです。ヤコブ119を見ていただくと、大変に実践的な教えとして出てきます。「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。 人の怒りは神の義を実現しないからです(ヤコブ119)」。人の話をちゃんと聞く・受け止める。同時に話すのに遅い、すなわち我が我がと自分の話をしない。そして、怒るのに遅い、すなわちどんなに非難されても、どんと受け止めて、カッとなって切れてしまわない。聖書が言うところの寛容というのはそういうことなのでしょう。私などは、そういう立派なものではなくて、ただ単純に頭の回転が鈍くて「話すのに遅い」ものですから、後になってから「あの時こうやって言い返せばよかった」などと後悔してしまう情けないものですが、本当の寛容を身に着けたいと憧れる。「聞くのに早く、話すのに遅く、怒るのに遅い」ひとつの非常に具体的なイメージ。クリスチャンだけでなく、多くの人の心に訴えかける美徳だと思う。特に日本人は、こういう美徳を大切にしてきたところがある。

 みんなあまり怒りの感情をあらわにしません。そのことの良い面も悪い面もあるが、それがひとつの特徴だと思う。みんなある程度、「怒るのに遅い」を実践している。そういう意味で、ふだん様々なコミュニケーションの中で、人の怒りというのは案外見えないものですね。特に、やさしくて、気を使って、自制を心がけている人は、怒りを面に出されることはない。でも、怒りが全くないわけではない。いや、怒りという感情にその人自身も気付いていないことしばしば。でも傷ついている。やさしい人ほど、たくさん傷つくのです。

・・・神様もたくさん傷ついておられるのだと思います。神様は人間と比較できないほど、やさしく、怒ること遅い方です。だからその怒りは見えにくい。また私たちはそれを見ようとしないもの。でも、神の怒りがないわけではない。神を神としないような私たち人類の傲慢なふるまいに、たくさん傷ついておられる。私たちは、そういう神様の怒りに対して、いつもあまりに鈍感なのだと思う。

 

 改めて4節の御言葉をご覧ください。「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くのも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。」

 慈愛と寛容と忍耐、それはあのノアの箱舟の時以来、「もう二度とこのようなことはしない」と誓われた時以来の、神様が示してくださる一貫した姿勢です。どれほどに人間がかたくなに背いても、ただちに放り投げてしまわないで、愛と忍耐をもってその悔い改めを待ち続ける。それはペトロⅡ39に一番明瞭に表されている。「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」これは、「主が再び来られる終わりの時など、いつまで待っても来ないじゃないか」という声に対する応答。今日のローマ書の御言葉にも「神が正しい裁きを行われる怒りの日」という表現がありましたが、主の再臨と最後の審判の起こる終わりの日、その時が近いという感覚を、この時代の人々は大変強く持っていた。でもいくら待っても、来ないではないか。そういう声に対して、いや、待っておられるのは神様の方なんだと教えるのが、この御言葉。ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを、大きな大きな愛をもって待っていてくださる。今すぐ終末が来たら、みんな救われない、滅ぼすしかない。でも、神はそれを望まないから、待っておられる。あなたたちも待ってるかもしれないけど、神のほうがずっとずっと待っておられるのだ。わたしたちの悔改めを待ってくださって、怒りの爆発を選ばれない神の忍耐ということを覚えるべきなのだ、という教え。

でも、そういう神の慈愛と寛容と忍耐を、私たちは「軽んじている=誤解している」。これはいうなれば、神のやさしさに甘えた勘違いと言える。神は私たちの悔い改めを待っておられるのに、私たちが自分で気づいて立ち帰るのを待っておられるのに、そういう神の切ない忍耐には全く思いを致さないで、ただただ神のやさしさに甘え続けて、少しも悔い改めることのない、私たちの勘違い。

でもそうしているうちに「神の怒りを自分のために蓄える」ことになっているのだと、恐ろしいことが書かれている。5節です。「怒りを蓄える」それは、宝物を集めるように、せっせと愛蔵するという言葉、明らかな皮肉。貯金箱にはなかなかたまらないものですが、神の怒りは知らぬ間にどんどん貯まっていく。それは、今は隠されているかもしれませんが、神が私たちの人生のすべてに対してふさわしく報いを与えられる「怒りの日」に、明らかに現わされるというのです。パウロの目線はいつもそこにある。この終わりの日の報いということは、来週より丁寧に見ていきたいが、パウロはいつもその終末のこと、究極のことを見つめながら、私たちにも、そこから目を離すな、その終わりの審判において、神の御前に立つ。そこから考えた時に、今の自分はどうなのか、どこに立っているのか。それを真摯に見つめ直しなさいというのが、パウロの一貫した教えです。だから今日も、私たちは問われています。神のやさしさに甘え続けている自分を問われている。

 

今週も厳しい御言葉です。今日の準備をしながら、私たちは神の怒りということをなめているなあと、つくづく考えさせられた。「堪忍袋の緒が切れる前に」という説教題にしたが、神の怒りの貯金箱が知らぬ間にいっぱいになってしまう前に、気付かなきゃいけない。

先週から大水害が続いていますが、コロナのことも含めて、こういう災害が起こると、これは神の怒りの裁きだという人もいらっしゃいます。私はそのようには言うべきではないと思っている。ただ、こういった様々な災害を通して、いよいよ怒りの日が近いのではないか、堪忍袋の緒が切れる時が近いのではないかと不安に思う気持ちはよく分かる。様々な時のしるしの中で、私たちは立ち止まって考えるように促されているのは確かだと思う。私たちは何かを間違えているのではないか・・自分で気づいて、悔い改める、つまり生き方全体の向きを変える、そのことを神は待っておられるのは確か。そんなことを考え続けた一週間でした。

でも、御言葉を何度も何度も読んでいるうちに、私にはもうひとつ全然違う示しも与えられた。何度も読んでいるうちに、急に御言葉が立ち上がってきて、電気が走ったような衝撃を覚えたのですが、それは4節、こう書いてありました「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで」。神の憐れみがあなたを悔い改めに導くのだと書いてあったのです。神の憐れみ、それは悔い改めを待って裁きの時を遅らせておられるという神の憐れみ、その神の憐れみが、あなたを悔い改めに導くのだと書いてあるのです。悔い改めに連れていくという訳もある。この言葉が立ち上がってきました。びっくりしたのです。それまで私の中では、怒りをこらえて待っていてくださる神のイメージがいっぱいでした。神様は怒りをこらえて待っていてくださる、その慈愛を、寛容を、忍耐を蔑ろにしてはならない、私の頭はそのことでいっぱいでした。でも、神はそんな消極的な方ではなかったのです。その神の憐れみは、ただ待っているだけじゃなく、あなたを悔い改めに連れていくのだと書いてあるのです。あなたをとっつかまえて、必ず連れていくのだ。

神の憐れみとは強い力なのだと知ったのです。そういう神の愛の力を知ろうともしないで、かたくなに神とのまっすぐなお付き合いを拒み続ける、それが私たち罪人であるかもしれない。でもパウロはそういう私たちに言おうとしているのです。神の愛をなめるんじゃない。神の憐れみをなめるんじゃない。

私たちがどんなに鈍くても、どんなに神を傷つけようとも、今この時まで、堪忍袋の緒を切らずに、あなたをずっと待ち続けてこられた神の慈愛を、なめるんじゃない。あなたが、そしてあなたがたの世界が、どれほどに神の怒りを蓄えようとも、それでも、その一切を覆いつくすほどに、神の憐れみはなお大きい。そして、その神の憐れみはあなたを必ず悔い改めに導くというのです。神は悔い改めに導くと決めた人は、必ず、どんなことがあっても悔い改めに導かれます。滅びを望まぬ神の憐れみは、そのようにして驚くほどに積極的に、私たちの生活に襲い掛かってくるのです。追いかけて来るのです。神は決してあきらめません。どれだけ拒まれても、ご自身の心はズタズタに傷つかれても、怒りに燃えることがあろうとも、私たちを救いの道に悔い改めさせるのを、決してあきらめにはならないのです。もし途中であきらめるくらいの、そんな中途半端な愛ならば、神は独り子イエスの命を差し出されはしなかったはずです。神の憐れみというのは、慈愛というのは、それほどに覚悟をもったものです。絶対に悔い改めに導くと言われるのです。

そのまま行くなら私たちには滅びしかありません。方向転換させてもらわなきゃいけない。私たち人類自身が全然その必要性に気付いていなくても、神様は分かっておられる。このまま行けば滅びしかない。だから、絶対にそうさせてなるものかと、憐れみの手を差し伸べて、方向転換させて、新しい道に連れて行こうとしてくださるのです。その神の憐れみをなめるなというのです。私はそのように示されて、圧倒される思いがした。私たちは、神の怒りの本当の怖さをちゃんと知らないだけじゃなくて、神の憐れみの本当の凄みについても、実は何も知らないのかもしれません。

 

 

今日は、いろんなことを感じられたかもしれません。自分はダメだな、神様のやさしさに甘えてばかりだと、自分を責める思いを強くされた方もいるかもしれない。でも、その思いは、神が与えてくださったものです。あなたを悔い改めに導こうとされる神の憐れみがあなたをとらえてくれたのです。だから、もし、自分はダメだと思われたなら、そのことを喜んでください。神の憐れみが、あなたのうちに悔い改めを始めてくださったのです。そのまま悔い改めを導いていただけばいいのです。私たちの中で始まった悔い改め、新しい道への方向転換を、神は必ず最後まで成し遂げられます。それは、私たちの周りの人たちに対しても、同じです。必ず悔い改めに導いてくださるのです。その神の憐れみのすさまじさを知らないから、私たちは神と向き合うことから逃げようとするのでしょう。でも、決して逃げられはしないのです。