2020510日イザヤ40911、ローマ117②「見よ、神の子が来られた」

 

 先週からローマ書の連続講解説教に取り組んでいます。先週も確認しましたように、今この時こそ、このローマ書を通して福音の真理を聞きたい、パウロに勇気を与えた福音の喜びを私たちもいただきたい、ただただその思いです。

確かにローマ書は難しい。私のような勉強不足な牧師にはよく分からないような、難しい神学テーマがたくさんあって、近年ではジェームズ・ダンやNTライトといった聖書学者に主導されたNPP「パウロ研究の新しい視点(new perspective of paul)」ということもしっかり押さえておかないといけません。でも、そういうものが全部把握できなければ説教ができないというなら、一生できません。私たちにはそんな悠長な時間はありません。今、聞きたいんです。福音が聞きたいのです。大げさに聞こえるかもしれませんが、明日もう死んでいるかもしれない。これは、別にコロナウィルスのことがあって言うわけじゃなく、私はいつも思っていることです。今日が、地上で礼拝をできる最後の機会かもしれません。病の床で、この説教のネット配信を受け取る人もいるかもしれない。そういう皆さん一人一人に、福音の喜びを届けたい。今日を生きていく勇気を届けたい。そして、たとえ今日命が失われるとしても、安らかに死んでいくことのできる慰めと希望とを届けたい。それが牧師の思いです。

パウロも同じだったと思います。彼は精緻な神学論文を書こうとしたわけじゃない。伝えたかったのは、福音の喜びです。それは、高度な神学的訓練を受けていないようなローマのクリスチャンのひとりひとりにも、ちゃんと届いたはずです。喜びは、理解を超えていくのです。

 

 改めて今日与えられた御言葉を見ますと、まだ挨拶をしているだけなのに、パウロの福音に対するこだわりがにじみ出ているのですね。今日は特に24節を分かち合いたいが、これは挨拶の途中に差しはさまれた挿入文。福音とはどういうことかを、簡潔に言っている。

パウロという人はいつもそうですけど、話の途中で急にスイッチが入ってしまって、そっちの話で盛り上がってしまうところがある。ここでもそう。まだ最初の自己紹介をしているだけなんですが、「神の福音のために選び出され、召された使徒」だと言った時に、その「福音」というワードによってスイッチが入ってしまったんですね。そこで、今言った「福音」とは・・と話が展開していく。そして福音とは、一言でいうなら「御子に関すること」だと言われます。御子、すなわち神の子イエス・キリストが私たちに与えられた、この方が来てくださった。この良い知らせこそが「福音」。イエス・キリストとはどういう方だったのか、どのように生きられたか、私たちのために何をしてくださったのか。それを知る。イエス・キリストを知る、そして彼に愛され、彼を愛する。キリストとひとつに結ばれて、キリストのものとされる。その喜びへと招きたい。この御子のこと=福音を伝えたい。それがパウロのローマ書を記した根本的動機。

 

 順番に読んでいきますと、「この福音は、神がすでに聖書の中で預言者を通して約束されたもの」だと言われます。ここは案外面白い言葉遣いがされています。神様は、御子の到来を、預言者たちを通して「すでに、あらかじめ」約束してくださったと言われています。特に変な言い回しではないですが、ただ考えてみると、そもそも約束というのは前もってするものですから、それをわざわざ「すでに、あらかじめ」と、くどく強調するというのは、ギリシア語では珍しい表現です。そして、「聖書に」約束されたとある、この聖書という言葉も、少し大げさ。それだけで「聖書」を示す「グラフェー」という言葉に、わざわざ「ハギオス(聖なる)」という形容詞がついてます。だから「聖なる聖書」とでも言うべきか、こんなくどい言い回しは、どうやら他にはないようです。

パウロの思いが透けて見える。おそらくパウロが言いたいのはこういうことです。私が伝える「福音」は、私たちが考え出した新しい教えではなく、あの「聖なる聖書」に、もうずっと前から「あらかじめ」約束されていたことなのだ。そこで考えられているのは、旧約聖書のどこどこの預言ということにとどまらず、旧約の神の民の歴史の全体がイエス・キリストの登場を待っていたのだ、それが遂に成就したのだということです。

しばしば申し上げますが、聖書というのは一つの大きな歴史物語(大河ドラマ)が描かれています。世界の創造・人類の誕生からその終末まで。あるいはその中でも一番のメインストーリーは、アブラハムから始まり、私たちキリストの教会へと続いてくる神の民の歴史。その大いなる歴史の中心が御子イエスの到来。それは罪に堕落してしまった全人類に赦しと新生をもたらす救い主の到来。そのイエス様の登場に向かって伏線が張り巡らされている。そういう感覚で旧約を読むと、どこを読んでもイエス様のことが見えてくる。また旧約をよく知らないとイエス様のことは本当には分からない。

 

そういうわけで、御子の到来の福音ということは旧約聖書全体が約束していた最大の希望でしたが、それを踏まえた上で、「福音」のルーツということを考えるためには特に押さえておきたい聖句がある。今日朗読したイザヤ40:911もそのひとつ。「9節、高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ」、この「良い知らせ」が「福音」のルーツ。そしてその良い知らせとは、「見よ、あなたたちの神。見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。」そして11節「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、子羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」

この御言葉を先週、私たちの家族の食卓で分かち合いました。これはどういうことが言われてるかな?難しいねと言いながら、子どもたちなりに解釈をする中で、「これってイエス様の復活の時のこと?」と長男くんが言いました。子どもの素朴な理解に、盲点をつかれた思いで、黙想が広がりました。このイザヤ書の預言はイエス様の到来によって成就したと教会は受け取ってきたのですが、復活の主の到来のことだと考えることは稀かもしれない。でも、本当にそうだ、これは復活の主の到来だと私は目を開かれた思いもしました。あの復活の時、栄光の主イエスが暗い部屋に閉じこもる弟子たちをたずねてシャロームと呼びかけてくださった時、弟子たちは思ったに違いない。神が来られた。死に打ち勝たれた王として、あるいはまことの羊飼いとして、神の子の栄光に満ちた主イエスが私たちのところに来てくださった・・・。

確かにそのように言っていいと思います。あの復活の時に、弟子たちは神の子の栄光を目の当たりにしたのです。今日の御言葉の中でパウロもこのように言っています。3節「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められました。」復活によって神の子と定められた・・、ここに注目したい。神の子と「定められた」、これは「宣言された、布告された」という意味もある。復活するまでは神の子ではなかったが、それ以降神の子になったということではありません。今までわずかに垣間見せていただいただけの神の子の栄光が、フルに表されて、誰の目にもはっきりと分かるものとなったということです。

使徒言行録にもそのようにして、復活という出来事がターニングポイントであったということが何度も示されます。その中でも2章が大切。ペトロが集まるユダヤの人々に、ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方ですと説得しようとする。このイエスが数々の不思議な業と奇跡をもってご栄光をあらわされたのに、あなたたちは十字架にかけて殺してしまったのだとユダヤ人の罪を糾弾する。しかし、主は十字架で殺されたままではいませんでした。神によって復活させられ、罪と死の支配に打ち勝たれたのです。だから、あなたがたは知らなければいけないと、ペトロは言います。36節です。「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

こういうことなのです。あの復活において、神はついに自らが遣わした御子イエスのご栄光を完全に明らかに示してくださって、私たちの主として、またメシア、力ある王さまとして、御子を即位させてくださったのです。そして驚くべきことは、その力ある神の子の栄光を目の当たりにして、弟子たちはまったく生まれ変わったということです。鍵をかけて閉じこもり恐れていた弟子たちが、死をも恐れぬ伝道者に変えられた。罪に敗れ、死を恐れていた弟子たちが、まったく作り変えられたのです。誰より変えられたのはパウロです。あの復活によって明らかにされた神の子の栄光を、最もダイレクトに味わったのはパウロでした。ダマスコに向かう途上で彼を打倒したあの光、あれが復活の主イエスの栄光です。あの日から、パウロのすべてが変わりました。聖書の読み方が変わりました。今まで知らなかった神の恵みの世界に触れたからです。罪と死に勝利された力ある神の子と結ばれて、まったく新しい命に生き始めたからです。

 

その新しい命のことを、永遠の命といいます。永遠の命とは、永遠に生き続けるということが本質ではなく、質的にまったく新しい命です。罪赦され、死の恐れから完全に解放され、神の御心とひとつになって生きる自由な喜びの世界です。この永遠の命の喜びを語ろうとするたびに、私は悲しくなる。言葉を重ねるほどにぼやけてしまうような、伝えきれないもどかしさ。自分自身がまだまだその喜びを十分に知らない。でも、これまでお仕えしてきた勝田台教会の一人の姉妹が伝えてくださった。今まで自分は、イエス様の十字架によって罪を赦していただいた、もうそれで胸いっぱいで、それ以上のことは考えられなかった。でももっと豊かな世界があったのですね。復活の大切さを知りました。主の復活から始まった新しい命の世界を知りました。そうしたら、今までと全然違う喜びが見えてきたとお伝えくださった。貧しい説教者を用いて聖霊がお働きになってくださったと感謝しかない。

皆さんにも、そういう導きがありますようにと願う。私は皆さんのために祈っています。心身の健康のためにも祈るし、それぞれの仕事や生活のためにも祈ります。でも何より祈るのは、復活の主イエスの到来によって開かれた永遠の命の喜びを味わうことができますようにということです。力ある神の子によって罪と死の恐れから解放していただいて、もっとのびやかに、もっと誇らしく、主が与えてくださる新しい命、永遠の命の喜びをもって、今この地上で新しく生きることができますように。それが牧師としての一番の祈りです。

ご存じのように、今私たちはウィルスの感染の危険におびえる重苦しい時代を生きているかもしれません。この日々からの解放を心待ちにするものですが、でも大事なことはもっと本質的な解放をいただくことです。罪に敗れ、死を恐れる、私たちの古い自分を死なせていただいて、力ある神の御子と共に生きる新しい命へと突きぬけさせていただくことです。そうでなければ、ウィルスの恐れから解放されたって何も変わりはしません。死の確率でいえば、交通事故死のほうが高いかもしれない。不安の種は、いつだっていっぱいある。ましてやこれから始まる経済的混乱などを考えれば、私たちを待ち受ける現実は大変に厳しい。そういうものを見ないふりをするのではない。むしろしっかり見つめることです。ただし、全然違う目をもって見るのです。死者の中から復活されたイエス・キリストを信じる者として、希望の目をもって現実を見つめるのです。どれほどに罪と死の力が強く思えても、必ず最後は力ある神の子の栄光がすべてを凌駕する、その時が必ず来ます。それまでにたくさんの苦難があるかもしれない。私たちの地上の命もあっけなく失われることさえあるかもしれない。だけれども、それがどうしたと笑ってしまえるほどに、力ある神の子がすでに来てくださったという事実は大きいのです。

 

神の子の栄光はすでにフルに表されました。この方が今も生きておられます。私たちは、この方の力ある守りの中に完全に置かれて、髪の毛一本さえ無駄に落ちることがないようにすべては備えられています。そしてこの方は、かつて来られたのと同じように、栄光に満ちたお姿で再び私たちのところに来てくださるのです。その時、すべての涙はぬぐわれます。すべての出来事の意味は明らかにされます。この世界は、罪と死の支配から完全に解放されて、光という光に満ちた永遠の神の国が完成するのです。それが、パウロが必死で伝えようとしてくれている福音の全貌です。この良き知らせに耳を澄ませ。そして、新しい命へとつきぬけろ。そのように、招かれているのです。