①「天地のつくりぬし」を信じる

新約聖書 使徒言行録17:23-24(新p248)
「それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。 世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は 天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。」
 
  クリスチャンじゃなくても、なんとなく「神様」を覚えて、何を拝んでいるのかも「知らずに拝んでいる」方は多くいます。大事なのは、本当に信頼できる真の神様とはどういう方かを、聖書から正しく知ることです。
聖書の神は、「天地のつくりぬし」です。まったく何もないところに、命を生み出すことができるのはこの方だけです。神様が、天と地の一切のものに、始まりを与えてくださいました。
「天地」とは、この世界のすべてです。地球も宇宙も、人間も動物も植物も、精神も物質も霊的存在(天使など)も、時間も空間も、すべては神に造られた「被造物」です。永遠・無限の神様の前で、すべてのものは限りある小さな 存在に過ぎません。だから「天地のつくりぬし」以外のいかなるものも、本当に信頼することはできないのです。

旧約聖書 コヘレトの言葉12:1(旧p1047)
「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。」

 コヘレトの言葉は、「空しい、空しい、すべては空しい」と始まります。 神を見失った人生の空しさが、えんえん11章にわたって語られます。
しかし、最後の12章に至って、そのむなしい人生を意味あるものとする、唯一の原理を語ります。それが、「あなたの創造主を覚えよ」ということです。
 創造主がいるということは、私たちが生まれたのは、偶然ではないということです。人知を超えた深いご計画と、愛情の中で、私たちは、創造主の御手により創りだされました。もしたとえ、あなたの誕生が、あなたの親に望まれていなかったとしても、神はあなたの存在を、強く望んでおられました。だから、あなたはこの世界に創造されました。だから、あなたの存在には意味があります。生きる目的があります。神様は、特別な意図をもって、特別な愛をもって、あなたを創りだされたのですから。

②「天地のつくりぬし」を信じるⅡ

旧約聖書 創世記1:1-5(旧p1)
「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」

1)神のご意志によって創造された最愛の作品である「天地」。
 この世界はいかにして出来上がったのか(How?)という問いは科学が よく答えてくれます。聖書の創造物語が教えてくれるのは、この世界と私たちとは何者なのか(What?)、そして、なぜ存在しているのか(Why?)です。天地とは宇宙全体です。私たち人間も含む天地万物のすべては、神の手によって創造され、そのはじまりを与えられました。決して偶生まれたのではない。神がこういうものを作りたいと強く望まれて、 思いを込めて作り上げてくださった最愛の作品であると教えています。

2)天地万物を支える根源的な「光」。
 どこにも命と希望がない、闇に満ちたむなしい世界。それが創造以前の「混沌」状態でした。しかし神はそこに、「光」を与えてくださいました。 それは、この宇宙の万物の存在を深い闇から呼び覚ますはじめの光です。そういう根源的な命の光を、第一の日に神は与えてくださったのです。 私たちの世界は、この希望の光の上に作られているのです。

3)夕べがあり朝があった。
 第一の日の命の光が浸透して世界の基が整えられ、大地が現れ、緑が芽吹き、それを食べる動物たちが増え広がり、最後に創造の冠としての人間が創造される。そして一日ゆっくりお休みになってちょうど一週間。そしてそのいずれの日も、「夕べがあり朝があった」と言われます。普通は順番が逆ではないでしょうか。希望の朝からはじまって、最後は悲しみの夜に向かっていく。人生もまたそのようなものだと考えてしまう。でも聖書には、夜で終わる物語はないのです。絶望の夜が来ても、必ず希望に満ちた朝がくる。それが聖書が教えるこの世界の真実です。十字架の絶望の夜もまた、復活の希望の朝に通じます。そして最後は、もはや沈むことのない太陽がのぼる永遠の朝がくるのです(黙示録22:5)。

③「全能の神」を信じる

 

旧約聖書 エレミヤ書32:27(旧p1239) 

「見よ、わたしは生きとし生けるものの神、主である。わたしの力の及ばないことがあろうか。」 

旧約聖書 創世記18:13-14(旧p23) 

「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子どもが生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。」 

 

1)神は全能である。できないことはない。 

「全能」とは、神様には何でもできるということです。何も無いところから、天と地を造られた神様だからこそ、できないことはなにもないと、私たちは信じます。聖書には、にわかには信じられないような驚くべき 奇跡について記されています。例えば、90歳の女性サラが子を産むとか、海が割れるとか・・。最大の奇跡は、イエス・キリストの復活です。それは、単なる蘇生ではなく、死に対する完全な勝利です。キリストは栄光の体によみがえられ、天に上られ、私たちのために永遠の命の道を開いてくださいました。そんなバカな、信じられないと思う方も多いと思います。それが普通です。神様のなさることは驚きばかりで、私たちの小さな考えではとてもついていけないことばかり。でも、神様にできないことはないと、私たちは信じます。 

2)祈りが聞かれようが、聞かれまいが。 

 でも、だからといって、神様を信じていれば必ずすべては思い通りにいくとは申し上げません。そんなことを信じてはいません。そういう風にして祈りが聞かれたという経験もたくさんありますが、実現していない祈りもたくさんあります。後者のほうがはるかに多いと言ってもいい。でも、そんなことで神を微塵も疑ったりしません。私たちの思う通りに神を操ることはできません。私たちには計り知れない神の御心を受け入れるのみです。むしろクリスチャンは、祈りが聞かれようが聞かれまいが、どんな時も 全能の父なる神を信じることができる、その信仰によって勇気と喜びを 得てきました。神にできないことはない。イエス・キリストを死者の中から復活させてくださった神が、私の味方だから、どんな絶望の中にも、 必ず希望を生み出してくださる。そのように信じてきたのです。

 

④「父なる神」を信じる

 

新約聖書 ヨハネの手紙Ⅰ3:1(新p443) 

「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。 

それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、 

事実またそのとおりです。」 

 

1)神を「お父様」と呼ぶことのできる幸い 

  私たちクリスチャンは神様のことを、「父」と呼ばせていただきます。逆から言えば、神の子としていただいたと信じることがゆるされています。 本来であれば近寄ることの許されない大いなる神を、「お父様」と呼ぶ。これはとんでもなく大きな祝福であることを覚えたいのです。 


2)愚かにさえ見えるほどの父なる神の愛 

 父は父でも、神が私たちにとってどういうお父様でいてくださるかは、有名な「放蕩息子のたとえ」から学ぶことができます。 

新約聖書 ルカ福音書15:11-32(新p139) 

  このたとえを理解する鍵は、父親の度を越した喜びです。むしろ「バカ親父のたとえ」と呼ぶほうがよいかとさえ思います。財産をくいつぶした愚かなドラ息子の帰郷を、手放しで喜ぶ父親の愛が、極端な仕方で浮かび上がるように描かれています。 

 この息子は、どん底まで落ち込んだところで「我に返り」、自分の無力を知りました。親の財産の後ろ盾がなければ、豚以下の値打ちしかない 自分の実際に気付いて、ふるさとに帰ろうとしたのです。それは彼の悔い改めと言えます。しかしまだそれは、どうにも手ぬるいものです。この先再び過ちを繰り返さないか・・・、とても信頼できません。 

  しかし父親は、そんな不出来な息子を愚かなほどの愛で受け入れます。「死んでいたのに生き返った」と大喜びして、彼に生き直すチャンスを与えます。この父の愛こそが、神の愛です。それは人間の常識ではとても推し量ることは出来ない、無限の愛です。放蕩息子の行き詰まりは、神を裏切り、神からはぐれた私たち罪人の惨めさです。私たちは何度も神を裏切ります。「息子と呼ばれる資格のない」者たちです。しかしそれでも神は私たちの「父」として、忍耐強く私たちの帰郷を待ち望み、大きな愛で抱きしめてくださるのです。 

 

⑤「父なる神」を信じるⅡ

 

新約聖書 マタイ福音書6:8(新p9)「あなたがたの父は、願う前 

から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」 

新約聖書 マタイ福音書6:25-34(新p10) 

「だから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思い悩むな。それはみな、異邦人 (=神様を知らない人)が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」 

新約聖書 マタイ福音書7:7-12(新p11)「あなたがたの天の父は、求める者に良いものをくださるにちがいない。」 

 

1)神を「お父様」と呼んで、ふところに飛び込んでいく 

  私たちクリスチャンは神様のことを、「父」と呼ばせていただきます。特にお祈りをする際に、その喜びを味わいます。「神の子として、安んじて、父のふところに飛び込んでいく」ことこそ、イエスの祈りの教えの要です。 

 

2)私たちの父は、必ず良いものを与えて下さる 

  天地の創造者、支配者である永遠の神が、イエス・キリストの救いの御業の ゆえに、わたしのお父さんであってくださいます。この大いなる父が、私以上に私のことを知っていてくださり、私たちに必要なすべてを備えてくださいます。良いお父さんである神様は、私たちの小さな願いを超えて、いつでも必ず、良いものを与えて下さいます。 

  時には私たちにとって災いとしか思えないような苦難があり、悲しみが訪れる時もあるでしょう。しかしそれも、父が子を鍛えるために与えてくださる試練なのだと、私たちは信じていいのです。そう信じることができるから、どんな災いが与えられようとも、私たちは絶望しません。必ずそこにはお父さんからの愛のメッセージがあると、心を高く上げて、前に進むことができます。父が備えてくださるものに、意味のないものは一つもないからです。私たちの救いのために、必ず、今最も必要なものを備えてくださいます。神は全能の神として、そのようにすることができるのです。そして、私たちの真実な父として、そのようにすることを望んでいてくださるのです。 

 

⑥「神の独り子」を信じる

 

新約聖書 ヨハネ福音書1:1-18(新p9) 

「(1~5節)初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。 成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 

・・・(14節)言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、 恵みと真理とに満ちていた。 

・・・(18節)いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」 

 

1)イエス・キリストは「神の独り子」であると信じる信仰 

  使徒信条の中心は、イエス・キリストとはどんな方(人格)であり、何をしてくださったのか(生涯と御業)、です。そして一番最初に挙げられているのは、この方は「神の独り子」であるということです。 

  神に等しい永遠の神の御子が、人間となって生まれて来てくださって、私たちと共に生き、笑い、苦悩してくださった。そして私たちのすべての罪を背負って、十字架で死んでくださった。しかし、そこから復活され、永遠の命へ至る道を 開いてくださった。そのように、クリスチャンは信じています。
 

2)私たちは、イエス・キリストを通して初めて、神の真実を知ることができる 

  ヨハネ福音書のプロローグでは、その独り子イエスの栄光が証しされています。「命を生み出す神の言、神である言」なる方イエスが、「肉」となって「わたしたちの間に宿られた」と言います。私たちの持つ人間的な弱さ、醜さ、死の影を背負ったようなはかなさの極みに至るまで、神が降ってきてくださった、共に歩んでくださったと言うのです。このイエスの生き様を見れば、神様がどういう方であるかが分かります。目に見ることの出来ない父なる神の愛、罪を悲しむ涙、罪人を抱く太い御腕、そういう神の思いの一つ一つが、この方の足跡の一つ一つに現わされています。この人の全生涯が神を示しています。それは罪深い世界を愛することを止めなかった、愛の人の生涯です。神の声を聞く耳を失ってしまった私たちに、独り子イエスの生き様を通して、神は語りかけてくださったのです。

 

⑦「神の独り子」を信じるⅡ

 

新約聖書 ヨハネ福音書3:16-17(新p167) 

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が 御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって 世が救われるためである。」 

新約聖書 ヨハネの手紙4:9-11(新p445) 

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。 

 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」 

 

1)独り子を与えていただいたほどに、確かに神に愛されている 

 「大切な独り子の命をささげる」、それがどれほどに大きな犠牲なのかということは、創世記22章の「イサク奉献」の物語から分かります。独り子をもささげようとした父アブラハムの姿勢は、「神への愛」の表われでした。しかし神は、私たちにそういう犠牲を求める方ではありません。むしろ反対に、私たちのために、独り子イエスの命をささげてくださった方です。 

  私たちには、そのような大きな犠牲を払っていただくような値打ちはありません。是枝監督の「歩いても歩いても」という映画の中で、「あんなやつのために死んだ、息子の死がもったいない」と父親が吐き捨てる場面があります。私たちも、神の御前でみなことごとく、救う値打ちのないような罪人です。しかし神は、その私たちのために独り子の命をくださいました。無いはずの価値を、神の方で、認めてくださったからです。つまり、愛してくださったからです。この神の愛ゆえに、私は生きていけるのです。 

2)みんなお互いに、神に愛された者たち同士だから 

  この神の愛に応えたい、それがクリスチャンの生きるモチベーションです。 独り子イエスの命によって、罪赦していただいた者だから、私たちもまた赦し合いたい。生かしていただいた命だから、神に喜んでいただくために精一杯励みたい。しかし何よりも、互いに愛し合いたいと願います。神に愛していただいた者たちだから、自分の持っている大切なものを与え合いたい。愛することは、喜びなのです。 

 

 

⑧「我らの主」を信じる

新約聖書 ヨハネ福音書13:12-17(新p194)
「さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。 わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。」

1)イエス・キリストは「我らの主」であると信じる信仰
  イエス・キリストを信じるということがキリスト教信仰の中心です。そしてキリストとは「我らの主」であると、使徒信条は教えます。
  「主」という言葉は、文字通り「主人、あるじ、主権者、支配者、マスター」。この方こそ、私の人生をコントロールする「主人」であるから、この方に従って、この方のように生きていきたいと心を定める。それがイエス様を「我らの主」と信じるということです。イエス様の教えに従って、神を愛し(=礼拝を大切にする)、隣人を自分のように愛して(=受けるより与える)、生きていくことです。

2)イエス様が、私を愛し抜いてくださったように
  このことを考えるにあたって大切にしたいのは、有名なヨハネ福音書の13章「弟子たちの足を洗う」場面です。十字架の死を前にして、イエス様は奴隷のようにひざまずいて、弟子たちの足を洗ってくださいました。それは、「弟子たちをこの上なく愛して愛し抜かれた(13:1)」ほどの愛の業です。またそれは、 弟子たちの罪を清める十字架の死を暗示していました。イエス様は十字架で流される血によって、罪人の罪を洗い流し、全存在をきれいに清めてくださいます。
  そしてこのように命じられました。「私のしたことを模範として、互いに足を洗い合いなさい」。イエス様と同じように自分の栄光を捨て、自分の輝きを消して、奴隷になりきって、互いに足を洗い合うのです。イエス様を「“我ら”の主」として信じ従う者が、そのようにして愛し合う姿を見れば、この世の人たちは 神を覚えて驚くことでしょう。そして私たちもまた真実の幸いを得るのです。

 

⑨「我らの主」を信じるⅡ

 

新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙6:17(新p351) 

「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。」 

 

 良い飼い主に愛されて生きるペットは本当に幸せです。ご主人様が大好きで、どこに行くにもくっついてきます。「我らの主」であるイエス様は、そういう良いご主人様です。聖書には、私たちはペットだとは言われませんが、イエス様の奴隷であるというすごい表現があります。「イエスの焼き印」を押された奴隷だと、パウロは誇らしく言いました。キリストのものとされ、キリストに従うことにこの一生をかける、と。 

  イエス様の奴隷となる、それは、自分がもはや自分のものではなくなって、イエス様のものとされるということです。それは私たちにとって、イエス様に従う道の始まりです。「生きるにしても死ぬにしても」すべてを主のために、イエス様に喜んでいただくために生きるのです。でもそれはまた私たちにとって、主の愛に完全に包まれて歩む、慰めの道の始まりです(ハイデルベルク1問参照)。「我らの主」であるイエス様は、私たちのことをご自分のものとして本当に大切にしてくださって、私たち以上に私たちのことを愛してくださいます。この主にお任せするから、心安らかです。 

 

ハイデルベルク信仰問答第1問 

問「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」 

答「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、 わたしの真実な救い主、イエス・キリストのものであることです。 

 この方はご自分の尊い血をもって、わたしのすべての罪を完全に償い、 悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。 

 また、天にいますわたしの父の御旨でなければ、髪の毛一本も落ちること ができないほどに、わたしを守っていてくださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです。 

 そうしてまた、ご自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、今から後、この方のために生きることを心から喜び、またそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです。」 

 

 

⑩イエスを「キリスト」だと信じる

 

新約聖書 ヨハネによる福音書1:41(新p165)

「彼(アンデレ)は、まず自分の兄弟シモンに会って、『わたしたちは メシア―『油を注がれた者』という意味―に出会った』と言った。」

新約聖書 ルカによる福音書2:10-11(新p103)

「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜び を告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになっ た。この方こそ主メシアである。』」

新約聖書 使徒言行録3:19―21(新p218)

「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。 こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって 決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。」

 

1)「キリスト」とは「メシア=救い主」のこと

  「キリスト」というのは、イエス様の名字ではなくて、職務です。アラム語の「メシア」を、ギリシャ語にしたもので、意味は「油注がれた方」です。かつて旧約時代、「王・預言者・祭司」という重要な職務に召された者が、聖別されたことの象徴として、美しいオリーブ油を頭上から注がれました。そしていつの日か、人々に救いと慰めをもたらす「まことの王・預言者・祭司」としての救い主を神様が遣わしてくださると、人々は信じて待ち望みました。だから、イエス様が「メシア=キリスト」であるということは、この方こそが私たち人類が待ち望んでいた救い主であるということです。

 

2)ルカによる福音書2:22-35(新p103) 
 【メシアに出会ったシメオン】

  シメオンの物語には、メシアに出会うことがどれほど深い喜びなのかが示されています。彼はくる日もくる日も神に祈りをささげ、メシアの到来を待ち望んでいた人でした。そんな彼が、神殿に連れて来られた幼子イエスに出会って、遂に「救い」をこの目で見たと言いました。救いとは、夜から朝に変ることです。 暗闇から光へ導き出されることです。彼が抱いていたのは、まさに救いそのものでした。そうしてシメオンは本当に満ち足りた慰めを与えられ、その後、きっと安らかに息を引き取ったのだと思います。これでもう思い残すことはない、もう死んでもいいと言い切れる。メシアとの出会いは、それほどの慰めなのです。