202075日サムエル記下12110、ローマ213

「他者を裁いている場合じゃない」

 

子どもメッセージ::今日の御言葉の書き出しは、「すべて人を裁く人よ、弁解の余地はない」。人を裁くって、どういうことだろう?それは、裁判官になったように、あの人は悪い、この人はダメだとふりわけること。そういう風に人を裁いてはいけないということは、イエス様も教えてくださっていること。でもこれって、考えてみると難しいね。だって悪いことをしている人を見れば、やっぱり悪いと思う。時には、正義のために戦わないといけない時もある。だから、人を裁いてはいけないということばかりにとらわれちゃいけない。それよりももっと大事なことは、自分はどうなのかということを、ちゃんと見つめるということ。人の悪いところはよーく分かるものだけど、自分はどうか、同じことをしていないか。自分のことは分からなくなってしまうのが人間の悲しいところ。神様の目には、私の罪がたくさん見えている。でも、それが赦されている。

 

 

ようやく2章に入りました。難しいところはあるけど、何度も読んでいるうちに、パウロ先生の伝えようとしてくれていることが分かってくるような気になる。やはり聖霊の導きでしょう。しかし、どうしても分からないのがこの2章の書き出し。「だから」と始まる。でも、文脈から考えると、ここはまったく違うことが語り出されていて、「ところで」なら分かるけど、「だから」と始まるのはおかしいと私には気になります。腑に落ちる解説もない。そんなに意味のある接続しではないとも言われるが、今はまだよく分かりません。いずれにしろ、ここは今までとは全然違うことが言われています。

 「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。」ここからは、「人を裁く」ことの間違いが言い立てられる。ここまでの流れは違いました。ここまでは、神を神としないで、むしろ不合格をつきつけるような人類の不義・傲慢が糾弾されて、そのやりたい放題の欲望の暴走を怒り悲しむような調子で、人類の罪が数え上げられてきました。今日の2節に「神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています」とあります。究極的に問題になるのは最後の審判における神の裁き。その裁きに耐えられない人類の闇の深さを暴くような、パウロの怒りの叫びと言ってもいい言葉の数々が1章の最後。

こういう言葉に、自分が責められているように感じて苦しくなった方も多いかもしれない。でも他方で、こういう言葉を受け止めながら、「ほんとにそうだ」と共感した方も多いと思う。「ほんとにそうだ、パウロ先生の言うとおりだ。よく言ってくれた」と、カタルシスを覚えるというのでしょうか?パウロと一緒になって世を憂うことで溜飲を下げるような思いになった人もいるかもしれない(それは、誰より説教者が陥りやすい傾向)。でも、今度はパウロ先生の言葉の矢は、そういう私たちの方に向かってくるのです。いやいやいや、何を勘違いしているんだ、と。「人よ。だれであれ、人を裁いているあなた!!」あなた、あなたのことだと強調された言葉。偉そうに世を憂いて、罪の世界だとジャッジをしているあなた、あなただって同じだ。あなたにも弁解の余地はない。あなたも同じことをしているではないか。

あなたは他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めていると言われます。おもしろい言葉です。よくブーメランと揶揄される愚かなやりとりがありますね。政治の世界で一番わかりやすく表れますが、自分のことはまるで棚に上げたかのようにして相手を攻撃するものだから、揚げ足を取られて、その同じ言葉をもって自分もまた責められる。そんな具合に、私たちも他人のことについては厳しく目を光らせているかもしれないけど、それは自分自身をも断罪していることになるよ。あなたが振りかざしているその正義の物差しではかれば、あなた自身もまったく的外れ。不合格。

 

改めてこのローマ書の文脈を考えてみますと、この2章からの言葉はユダヤ人を対象にして語られた言葉であるとの解説が主流です。特に2:17以降は明確になるが、すでに2章の最初からそうなのだと言われる。

パウロ自身もユダヤ人でしたが、最初期のキリスト教会というのはユダヤ人の占める割合が多い。ユダヤ人は、聖書の神である創造主にして唯一の神である主なる神との特別な契約の中で導かれ、神の教えを受け継いで生きてきた人たち。イエス様は、そういう神の約束と教えを成就するメシアとして、この世界に到来されました。だから、多くのユダヤ人がイエス様の復活を信じて、この道こそが聖書に示された救いの道だと受け入れて従った。そういう意味で彼らは、それまでとまったく 別のものを信じているわけではない。むしろ、これまで大事にしてきたユダヤの伝統的な信仰生活の延長で、キリストの道に入った者が多い。ローマの教会も大多数はそういう人だったのだと思う。

そしてそういうユダヤ人たちがぬぐいがたく持っていたのは、自分たちは神から選ばれた特別な神の民であるという誇りと自負でした。それは非常に悪い意味での選民意識と裏腹で、神を知らぬ汚れた異邦人世界を軽蔑し、見下す思いがあったことも否めない。パウロが問題にしているのはそこなのです。そういう意識に対するパウロの批判が今日の言葉にも込められている。「人を裁く者よ、あなたも同じことをしている」、そして3節「このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ。あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか」。

 

「神の裁きを逃れられる」それは、ユダヤ人たちが持っていた信仰です。彼らは神との特別なお付き合いに生きてきた民族で、自分たちは神様と大変親しいと自覚しています。選びの民、契約の民、それゆえ、自分たちはもう神の怒りの裁きからは免れているという信仰がありました。その安全圏に自分を置いて、そこから神を知らない異邦人世界を嘆く。でも、それでいいのかとパウロは問いかけるのです。決して完全ではありえない自分を棚に上げて、まるで、自分が神になりかわったかのように、安全圏の高みから見下ろすようにして、神を知らぬ異邦人世界を裁いている、でもそこに何か歪みが生じていないか・・・。

神になりかわったかのようにと申し上げましたが、ユダヤ人の中には、そのように考える人は一人もいないでしょう。そんな傲慢はありえないと考えているつもりのはずです。でも、そうであるにもかかわらず、今のあなたは、まるで神になりかわったかのようになってしまって、自分の罪深さを見失っていないか、と問うているのです。

そしてそれは、まったくユダヤ人だけの問題じゃない。自分はユダヤ人じゃないから関係ないとは言えない。考えてみれば、今日の御言葉も、「ユダヤ人たちよ」と呼びかけられてはいない。明らかにユダヤ人対象ではありながらも、「人よ!」と、すべての人が聞くべきこととして呼びかけられている。私たちも問われている。「人よ、他者を裁く者よ、あなたはどこに立っているのか?」私たちもまた同じように、自分を安全圏において、まるで自分は裁きから無関係な特権階級かのように、高みから人を裁いていないか。そうじゃいけない、まずあなた自身のことが問題なのだ。他者がどうの、社会がどうのじゃなく、まず、いやいつでも、あなた自身が神様に対してちゃんとまっすぐに向き合っているかどうかが問題なのです。それは、いつでも神の裁きを意識して生きること。

 

大事なのは、私たち一人一人が、真実を見通す神の裁きをちゃんと見つめて、生きているかどうかです。ここ最近に分かち合った御言葉において(またこれから先の2章でも)パウロが届けようとしてくれている教えは、つまるところそのことにつきると思います。ちゃんと最後の審判を見つめよ。神様をなめてちゃいけない。怒りが現わされる時が来る。その裁きの日に、ユダヤ人もギリシア人も関係ないのだ。神を神とも思わぬような狂った異邦人世界には必ず裁きが与えられる、神は見過ごしにはされない。でも同時に、神との契約の民であるはずのユダヤ人であっても、安全圏にいるわけではない。ユダヤ人であるだけで特権を得ているわけじゃない。大事なのは一人一人の信仰の中身です。異邦人世界の罪深さを嘆くのはいいですが、あなた自身はどうなのだと詰め寄っている文脈。

こうやって追い詰められるのはつらいし、自分は救われないのではと不安になる。でもそうやって追い詰めるパウロ自身が一番分かっているのは、自分自身の罪深さということです。神の裁きの前で、まったく立つ瀬がない自分の姿。でも、そういう者が、ただイエス・キリストへの信仰によって、赦され、無罪とされ、救われる。その福音の喜びということ。それがパウロの伝えたいことであるのは間違いありません。御子イエス・キリストの福音を伝えたい。そのために、まず自分の正しくなさとちゃんと向き合え、神の裁きの前での自分の惨めさを直視せよと迫るのがローマ書の論述構造。

こういう論理的な追い詰めに対して、素直になれない、むしろ抵抗を覚える方が多いことも私は知っている。罪が分からねば救いは分からぬと言われると、余計に心がかたくなになってしまう。だから、北風と太陽のたとえにおける太陽の様に、「大きな赦しの光の中に入ってきなさい」と言って差し上げたら、その言葉を待っていたと言われた求道者の方もいた。

皆さんも抵抗を覚えるかもしれない。自分の罪を思い知れと迫ることが効果的なのかどうかは、分からないところがある。ただ自分自身の経験として思うのは、確かにそうして自分の罪深さを思い知らされたその時にこそ、福音が圧倒的に迫ってくる、それは確かだということです。私は7年ほど前の訓練会の時に、自分が何年も前の過去の牧会で犯してしまっていた決定的な間違いに気付かされました。それは、教科書にはやってはいけないことと書かれていることです。自分でも自分がそのようにしているとの自覚が今までまったくありませんでした。でも、その訓練会で、仲間の牧師からまったく別の人の事例としてそういう間違った牧会をしてしまった牧師さんの話が紹介されたときに、ああ、私も同じことをしてしまっていたと気付かされて、本当に悔い改めさせられたのです。そのときの私は、そんな自分の過ちを見つめようともせずに、相手を裁き、相手に悔い改めを迫ることばかり考え、しかも実際は、その一連の問題からいつも逃げてばかりであったことに気付きました。それは本当につらいことでした。でも、その訓練会の中で行われた聖餐式は、忘れがたい、格別な恵みでした。この私の救いのためにキリストが十字架で死んでくださったこと。そして、新しく生きよと、命を差し出してくださっていること。そのことが“骨身にしみた”とはまさにあの時。

 

今日、この後、聖餐式があります。久しぶりの聖餐式です。皆さん一人一人にとっても、福音の喜びが骨身にしみる奇跡の時間になりますようにと願っています。私たちは誰一人として神の裁きに耐えられないものです。信仰の理解が深まるほどに、自分には誇ることが何もないと、いよいよ神に依り頼み、自分の罪を悲しむもの。でも悲しめば悲しむほどに、ますます救いの恵みを大きく知るのです。