2020524日 詩編13313、ローマ1815①「励まし合おうよ」

 

子どもメッセージ:

今日のポイントは、「あなたたちと会って、共に励まし合いたい」と言っているところです。私たちは互いに励まし合いながら生きるようにと、神様から「信仰の仲間たち」として呼び集められたのですよ。実は先週、不思議な導きがあって、とっても励まされたので、それをみんなにも分かち合いたい。

(封筒を取り出して)この封筒、「忘れるべからず」って先生の汚い字でメモが書いてあるね。これが引き出しに大事にしまってあったのを見つけました。あれ?これ何だったかな?中身を見ると、5000円札と共に、母教会の板宿教会の姉妹からいただいた手紙がありましmた。数年前に天に召されたご高齢の姉妹が、牧師になりたての頃の私に送ってくださったもの。どんなことが書かれていたか。「あなたたちに励まされました、ありがとうございます」っていう手紙でした。若者だった私や朋子さんが立派に成長して、牧師さん夫婦になられて、本当にうれしい、神様はすばらしいことをなさってくださいますね、とても励まされましたって書いてくださっている。でもね、励まされたのは私たちのほうでした。小さな小さなおばあちゃん。ずっと昔から見守って祈ってくださっていたおばあちゃんです。私が洗礼を受けた時も、おめでとうと喜んでくださった。そのおばあちゃんが、お金はあんまり持ってないのに、大事な5000円を届けてくださった。そのことがあまりにありがたくて、うれしくて、牧師としてがんばっていこうと大きな励ましを覚えました。だから、忘れてはいけないって思って「忘れるべからず」って大事にしまっておいたのでした。その時の感動が、もう一度胸によみがえってきて、とってもうれしかったのです。

そんな風にね、私たちは互いに励まし合うことができるのですよ。そのことを覚えていてほしい。イエス様は君たちを励ますために、大切な信仰の仲間との出会いを与えてくださいます。そして、君の小さな存在が、誰かを励ますために、イエス様に用いられるのですよ。

 

 

 先週まで三回にわたって冒頭の挨拶を分かち合いました。すでにここにローマ書の全体が凝縮されているような密度の濃い挨拶でした。今日からいよいよ手紙の本文に入っていく。815節、特に今日は812節を分かち合いたい。その書き出しはこうです。「8節:まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。」

 ローマの教会の人たちの信仰が全世界に言い伝えられている。こう聞くと、さぞかし模範的なクリスチャンだったのだろうと思うのですが、どうもそういうことではないようです。実際はローマの教会というのはまだ出来立てほやほやで、教会の内実についてはよく知られていなかったのです。

これまでもこのローマの教会というのがどういうものかと確認してきましたが、教会と言ってもまだ組織も整っていない、大きな会堂などあるはずもない。いくつかの家庭集会が街のあちこちに存在しているものです。分からないのは、このローマのクリスチャンたちというのは、どういう経緯で信仰を持つようになったのかということです。パウロもまだローマに行ったことがない。正式な伝道者が派遣されて布教がなされたというのではないようです。恐らくは、世界の各地からローマへと移り住むようになったクリスチャンたちが、周囲の人たちに伝道したのだと思います。何しろ、大ローマ帝国の首都ですから、人もモノもすべてがローマに流れ込んできます。中には、プリスカとアキラという夫妻をはじめとして、パウロにとって信頼できる何人かの信仰の友がいたことが16章の最後の挨拶を見ると分かる。これらの方々が中核になって、それぞれの家庭で集会をしていたのではないかと思われる。

 そういうローマ教会。まだ生まれたばかりで根を張っていない。有力な指導者がいるわけでもない。立派で質のいい信仰であったかどうかは分からない。でも、中身はどうあれ、世界の中心である首都ローマに、すでに福音を受け入れた信仰者がいるということが大事なのです。だから、「信仰」が評判になっていると言っても、彼らの立派さへの評判じゃない。そうじゃなくて、神が「信仰」を起こしてくださっている、そのことが世界中のクリスチャンの間で評判になっている。復活の主イエスの大いなる救いの御業が、首都ローマをも満たし始めているという事実が、大きな感動を呼んでいる、ということなのです。だから、「神に感謝する」というのですね。あなたがたにお礼を言いたいというのではなくて。神がローマに「信仰」を起こしてくださったことへの感謝。

 

 そしてパウロは、彼らに会いたいと強く願っています。「9-10節:わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは祈る時にはいつもあなたがたのことを想い起し、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。」

 ここはとっても読みづらい文章ですが、一番最初に来るのは「神が私の証人です」。私がいつもあなたがたのことを覚えて祈っているということを、神が証言してくださる、ということ。これはもう、ある種の誓いの言葉でもありますね。神の前で決して嘘ではないと、まだ見ぬローマの人々に対して、熱い思いを訴えているわけです。本当は、「神の名をみだりに唱えるなかれ」と言われていますから、私たちは簡単に「神が証人です」などと言ってはいけないのです。ですから、ここまで言うのは、パウロがよっぽどの思いで彼らに会いたいのだということが、分かります。

 ただ、今すぐというわけにはいかないというのが悩ましいところ。「何とかしていつかは」と言っていますね。ここは本当に回りくどくて「ゆるされるなら、なんとかして、ついに、いつかは、神の御心によって道が開かれ、あなたがたのところに行くことができますように」と、ごにょごにょと言っている・・・。そこにはパウロの悩ましい事情がありまして、ぜひあなたがたのところに行きたいのだ、と切望しつつも、今はどうしても行けない、この後行けるかどうかも分からないという事情。だから、こんな風に、言葉が揺れ動きます。実はパウロはこの時、ギリシャ地方の教会からの献金を届けるためにエルサレムに行き、困難にあえぐ教会を助けようとしているところなのです。そのエルサレムへの旅を前にしてコリントで三か月滞在した(冬の航海を避けるための待機:使徒言行録20:23)時に、このローマの信徒への手紙は書かれたと言われます。今は、エルサレムへ向かわねばならない。それが無事に終わった後で、帝国の都であるローマに入りたい。さらにはそこを宣教の拠点として、さらに西方(イスパニア)に伝道を展開したいという大きなヴィジョンを持っていました。しかし、この旅を無事に終えられるかどうか・・。

エルサレムに行けば、かつての仲間だったユダヤの人々から裏切り者として追われ、命の危険にさらされるのは間違いない。それゆえにパウロに「行かないでくれ」と必死に仲間たちが頼むという場面もある(使徒言行録21:12)。でもパウロは、「死ぬことさえも覚悟している」と、それを振り切って進んでいく。彼だって恐れと不安からまったく自由であったわけじゃありません。

使徒言行録には、「パウロ、恐れるな」と主が夢の中で語りかけてくださった場面もありますが、「恐れるな」と主が言われるというのは、彼が恐れていたからです。偉大な伝道者パウロは、恐れと不安など持たなかった鉄の男ではありません。彼はむしろ、気が小さくて、不安にとらわれてしまうところもあった弱い人だということが、手紙の端々からもうかがえるように私は思っています。このローマへの手紙を書いていた時もそうです。無事にエルサレムへの旅を済ませることができるだろうか、その恐れと不安の中で、ある意味では遺言のような思いで、自分の持っているすべてを伝えようと、この手紙をつづっている。でもそういう小さなパウロにとって、ローマの地に立てられたクリスチャンたちを思うことが、本当に大きな励ましであったのだろうと思います。

それは彼にとって、福音の力を想い起こさせるものでもありました。復活の主イエスは確かに生きておられて、自分の小さな思いを超えて、ご自身の福音をローマにまで広げてくださった。福音には力がある!!。その目に見える証拠が、ローマにいるクリスチャンたちの存在だったのですね。彼らのことを思うたびに、新しい救いの時代が本当に来たのだという確信が広がったことでしょう。そしてその確信が、パウロにとって、恐れと不安を凌駕するような勇気と希望となったはずです。

 

 そして彼はこういう風に続けます。「1112節:あなたがたにぜひ会いたいのは、霊の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。」

 ここのところがおもしろいのです。まず最初は「会ってあなたがたの力になりたい」と言う。「力になりたい=強められ、固く立てられ、ぐらつかなくなるように(手助けしたい)」、そのために「霊の賜物」を分かち合いたい。それは、ローマ12:6以下やⅠコリント12:4以下に挙げられるような、教会を建て上げるためにそれぞれに与えられる賜物。預言の賜物とか奉仕、教え・・。パウロがここで考えていたのは、福音の説教のことだと言う人もいるが、そうかもしれない。なにしろパウロの特別な賜物をもって、あなたたちを強めたいと名乗り出る。でも、すぐにその後で言い直すのですね。

12節は言い直しです。「いや、違うな、むしろ・・」という感じ。原文のギリシャ語だとその雰囲気が出ているのですが、「私があなたたちを力づけたい」と少し力んで言った後で、いや、違うなと。そうじゃなくて、むしろ共に励まし合いたいのだと言うのですね。この「共に励まし合う」というのは、ここだけしか出てこない特別な言葉です。また「あなたがたのところで」というのは「あなたがたの間で、中で」という言葉。これは本当に具体的に、ローマの兄弟たちの群れの「中で」、顔つき合わせて祈り、肩を抱き合い・・そういう交わりを持ちたい。そういう交わりにおいて、共に励まし合いたい。むしろパウロからすれば、私の方が励ましを得たいのだというのが言葉の奥にある思いではないかと思います。決死の覚悟でエルサレムへと向かおうとする、その恐れと不安の中で、あなたたちに会いたい、会って励ましを得たい・・。この気持ちは、私にはとてもよく分かる気がするのです。

先週、先々週と、金曜日に数人の姉妹方と集まって、小さな祈りの会を持ちました。ウィルス感染の危険が言われる中ですが、集いたいと願われる方、ご事情の許される方が集ってくださいました。近況報告したり、短く聖書を分かち合ったりして、みんなで一言ずつお祈りしました。何か月ぶりだったでしょうか。3月までお仕えした勝田台教会でも最後の一か月は祈祷会ができなかったので、2か月ちょっとのあいだ、祈祷会ができないでいました。まあ2か月ちょっとというのは、そんなに長くもない期間ではありますね。でも、とても長く感じた2か月半でした。本当にうれしく、励まされました。

その時まで、私の中にはある傲慢な思いがあったことにも気づきました。自分が牧師として皆さんを励ましたいという思いです。でも、励まされたのは私でした。この祈りの交わりを必要としていたのは誰よりも私だったのだと気づきました。特別な何かがあったわけじゃない。ただただお互いに、信仰を与えていただいた者として集まって、一緒に神の御前に出て祈っただけです。でもそのようにして同じ主を見上げ、同じ信仰、同じ希望、同じ命に生かされている信仰の友と集まることができるということが、こんなにも大きな励ましであるということに気づかされたのは、この状況のおかげかもしれません。

考えてみれば、この毎週の礼拝も同じです。この礼拝において、司式をし、説教をしているのは、牧師としての特別な賜物をいただいた私です。その霊の賜物を皆さんに分け与えて、皆さんを力づけたい、励ましたいと願って毎週準備します。でも、毎週思います。ここに共に集ってくれている家族や長老たちの存在にどれほど励まされていることか。そして、たとえ相集うことはできなくとも、画面の向こうにおられる皆さんの存在がどれほど励ましになっていることか。あるいはこの原稿を受け取っておられる姉妹の存在を思い浮かべることで、どれほど励まされていることか。ああ今日も主が生きておられる。私たちと共にいてくださると実感する。私たちは、互いが持っている信仰によって、互いに励まし合うことができるのです。そのように生きるようにと召されている。

 

私はいつも申し上げるのですが、信仰の歩みはひとりで歩むものではありません。互いに励まし合うことのできる、具体的な仲間たちを、神は必ず与えてくださいます。皆さんは経験されたことがないでしょうか。自分が不安な時に、一緒に神様に祈ろうと、背中を支えてくれたその手のあたたかさを。自分が、神を疑い、惑い、見失ってしまいそうになって、その苛立ちをぶつけても、少しも動じないで、ただ黙ってその惨めな私を受け入れてくださった、信仰の先輩たち・・。あるいは「この人の信仰にはかなわない・・」と思わされた、自分にとっての「壁」として立ちはだかってくださった方々・・。そんな風に、神様は、同じ主を信じる仲間の人格を用いて、温度を伴う関わりを用いて、私たちを強め、励まし、成長させてくださる方です。

今、自分はそういう励まし合いを必要としていないという人もいらっしゃるかもしれません。あるいは、そういう人間関係が苦手なのだ、そういうことが面倒で教会から足が遠のくのだという方もいらっしゃると思います。でもどうか覚えていてほしいのです。たとえあなたにはその励ましが必要ないとしても、あなたの存在が、他の誰かを励まし得るのです。そのために、私たちそれぞれの存在が用いられるのです。まだ何も持っていなかったローマの教会の人たちの存在がパウロにとっての励ましとなりえたように、同じ信仰を持っているというそれだけで、信仰の友の励ましとして用いられるのです。みんなで、その視点を持つことができれば、教会はどれほど豊かになることでしょう。みなが自分のことだけではなくて、自分が励ましをいただくという視点だけではなくて、他の誰かの励ましのために自分を用いていただく。そういう視点で考えることができるようになれば、教会に血が通うのです。そういう教会において、神の愛の熱い温度が証しされるのです。そういう教会に、まだ信仰を持っていない人たちも集い始めるのです。