2020830日 詩編116511,ローマ318

「神の誠実は貫かれる」

 

子どもメッセージ

 大切な御言葉「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。」

人間はみんな嘘をつく。自分も嘘をつく。嘘をつかない人がいてほしい。今、ワンピースに夢中になっている、とても感動するマンガ。どうしてみんなが心をひきつけられるか、それは主人公のルフィが絶対に友達を裏切らないから。嘘をつかない。残念ながらそういう漫画の主人公のような人はいない。正直者は馬鹿を見る。この世界は、嘘つきのほうが偉くなるし、偉くなると嘘つきになる。でもみんな本当は願っている。真実がほしい。この世界は裏切りや嘘つきばかりだけど、決して裏切られることのない真実な関係がほしい。聖書を知ってる人も、知らない人も関係なく、それが人間の願い。

 今日与えられた御言葉を大事にしてください。「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。」神様は真実な方です。私たちはどんな時も、神様は裏切らないと信じていいのです。偽りだらけの人間に絶望し、自分に絶望する。でも、神様だけはいつも真実でいてくださって、この不真実なわたしたちを生かしてくださっている。だから、生きていける。神様を信じるってそういうこと。そしてそういう神様と真剣にお付き合いしていくことで、私たちもルフィのような、人を裏切らない心が与えられていくのです。

 

 

 5月からローマ書を読み進めて来て四か月、今日からは3章に入ります。この3章の21節のところから、いよいよこの手紙の中核部分に入っていきます。でも、そこへと至る前の今日のところは本当に難しくて、やっぱりローマ書なんて始めなきゃよかったと思うくらい。みなさんもお感じになられたと思うが、妙に理屈っぽくて、何を言っているのかよく分からない。なにかパウロ先生がひとりでぶつぶつ言っておられるのだけど、ついていけない。これは仕方ないのです。実際、ぶつぶつと自問自答しているのです。これは、ディアトリベーという論争形式の話法だと言われますが、論争相手がこう言ってくるであろうという反論・疑問を想定しながら、それに応えるというかたちで大事なことを伝えようとする話し方。こういう話し方は、当時の人々には分かりやすかったのかもしれませんが、少なくとも私にはかえって難しくてよく分かりませんでした。しかも今日の18節というのは、大きな文脈で言いますとやや脱線しているところもある。ここがなくても、9節につないだほうがすっきりする。パウロ先生は時々話が横道に逸れてしまうというか、夢中で話しているうちに付け足しの話が盛り上がってしまうというところがある。今日のところもそういう感じが否めないのですが、でもそういうところにこそパウロ先生が大事だと思っていることが、むしろ垣間見えてきたりする。そういうわけで、今日のところはやや横道ということを意識しながら、あまり細かく分け入るのではなく大づかみに、言外に込められているパウロ先生の熱いメッセージを読み取るような思いで、説き明かしをさせていただく。

 

 まず1節、ここにまず最初の自問自答がある。「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。」これはここまでのパウロの主張に対する反論疑問として考えられること。先週まで繰り返し申し上げてきましたが、ユダヤ人の歪んだ特権意識を捨てよというのが一貫したメッセージ。律法を持っているとか、割礼のしるしがあるとか、そういうところにもう執着するな、それはキリストが来られた今はもう意味がないと言い続けてきた。じゃあ何なんだ、これまでのユダヤ民族の歴史には何の意味もないということか、という疑問が起きるのは自然なこと。これはけっこう身近な問題で、旧約聖書をどれだけ大事にすればいいかということと関わる。旧約聖書は壮大な大河ドラマ、数千年に及ぶユダヤ民族の歴史が書かれている。でももうそれは学ぶ必要がないのじゃないかという声は、キリスト教会では、もう古代教会のマルキオンという人の時からずっとある。ユダヤ民族の歴史なんて学んでも意味がない、イエス様の教えで十分だから新約だけでいい。皆さんはどうですか。旧約を大事にしてますか。大事だと頭では分かっていても、あまり読んでいない、理解していないということもある。でも、旧約の歴史をちゃんと知らないと、結局イエス様のことも分からない。旧約聖書に書かれている約束や教えや戒めがちゃんとわかってこそ、イエス様が行動の意味もよく分かる。今日のところでパウロが言っていることも、そういうことに関わる。

 パウロは言います。「彼らは神の言葉をゆだねられたのです」、これがユダヤ民族の「優れた点=他の民族と違う点」です。いわば、選びの民としての特別な使命、役割。「委ねられた」とは、「信じる、信頼する」という語の受身形で、これをよく保存し人々に伝えよと、託す思いで語りかけられた。実際ユダヤ民族は、神の言葉(民族の歴史そのものを通して示された教え、戒め、救いの約束)を書き記した「聖書」をよくまとめて、これを可能な限り完全な状態で保存しようと、涙ぐましい努力をしてきました。迫害下で聖書が燃やされた時にも、必死の脱出劇をもって聖書を守った、そういう彼らのおかげで、私たちは今、旧約の「神様の言葉」に触れることができる。彼らの歴史の中で与えられ、担ってきた神の救いの言葉にこそ、全人類の希望がある。

 でも残念ながら、そのようにして大切に担ってきたにも関わらず、肝心のそのユダヤ民族が、神の言葉を無視して、神に対する不誠実を働いてきた(←「言葉を託された」というのと、反対の意味の言葉)。それは旧約の歴史に示されてきた度重なる神への反逆のことでもありましょうし、特に、イエス様を信じなかったという不信仰のことを言っていると思う。彼らに託された旧約の「神の言葉」のすべてはイエス様を指し示すものだが、それを必死で保存してきた彼ら自身が、イエス様に躓いて、その救いにあずかることができていない。むしろ反発して、その神の言葉を無視するようにして離れていってしまう。

でも、そういうユダヤ人の不誠実・不信仰ゆえに、神様のこれまで約束してきてくださったことが全部無に帰するのかといえば、そんなことは決してないと、34節に示されています。「神様の誠実」とは、ずっと約束してくださった通りイエス様を与えて救いを実現しようとされる誠実さ、「ご自身の言葉(約束)に対する真実」、指切りげんまんの強さ。それは決して変わらない。このようにしてあなたたちの救いを実現しますと神が約束なさった、でもそんなの知らん、いやだと民に無視された、だからといって「じゃあもう、この約束は無しにする」とはならない。神様の約束はそういうものじゃない。人のほうでどれだけ不誠実、不信仰でも、無視されようとも、あるいは反逆され妨げられようとも、神の方ではご自身が約束されたことに誠実を尽くしてくださって、救いのご計画を実現していかれる。

それはイエス様の十字架を見ればよく分かりますね。十字架での処刑は、ユダヤの人々による最大の神への反逆。神が遣わされた方を喜ばないで、こんなやつ嫌いだと殺してしまった。でも、そういう不誠実があっても、神の救いのご計画は台無しになってしまうことなく、むしろそういう十字架の深い闇を通って救いは成し遂げられていく。神の子を殺してしまうなんて、本当に深い人間の罪。でもその人間を救うと約束してくださった神の誠実さは、その罪を覆ってなお余りあるほどに、深く徹底している。そういう誠実さをもって、神様はいつも私たちを救いに招き続けてくださっているのですね。その招きにはユダヤ人も当然含まれる。イエス様を殺してしまったような不信仰なユダヤ人、でも、そういうものさえ受け入れて義とされる、それが神の救いの真実です。

この神の真実を絶対見失うな、この神の救いの真実だけは揺るがない、ここに私たちの救いがあるんだとパウロは伝えようとしているのだと思います。4節「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。」人間の方は本当に当てにならないのです。私たちは当てにならない、今日聴いた説教を家に帰るまでに忘れてしまうような者たち。ユダヤ人のことを責めていられない、同じように神様の思いを裏切ってしまうし、互いに嘘偽りに満ちている。神の子を殺してしまったという大罪も他人事じゃない。でも私たちの方がどれだけ当てにならなくても、神の方ではいつも誠実を貫いていてくださる。この神の真実によって生かしていただく。この神の真実の方にしか、私の救いはない。パウロが教えてくれる福音というものの根本に、この神は真実な方であるとの信仰がある。私たちは不真実でも、神がいつも真実でいてくださる、神がご自身の約束に対する誠実を貫いて、まったく正しくありえない私たちを救いに導いてくださる。それが今日のメッセージなのです。

 

でも、そういうパウロの伝える福音に対して、それは甘すぎるだろという批判はいつもある。実はこの後のパウロの言葉というのは、そういう批判を意識してのもの。最初に申し上げたように、今日のところはパウロ先生が自問自答するように、疑問や反論を想定してブツブツ言っているようなところですが、この後のところで想定されているのは屁理屈といっていいことです。

こういう屁理屈を考えたことありませんか。犯罪者がいなくなれば、警察の仕事が無くなって困るじゃないか。だとしたら、警察にとって犯罪者ってのはお客さんのようなもんで、怒るよりもむしろ感謝するべき・・・。それと同じような屁理屈。「わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら・・」とありますが、これはパウロが言うところの福音をねじまげた考え。今日も確認したように、私たちが不真実でも正しくなくても、神のほうが真実でいてくださって、恵みによって私たちを義としてくださるのだとパウロは教えます。だったら、それを突き詰めて考えていくなら、人間がいくら悪くたって関係ないということじゃないか。だから、もう悪に対する神の怒りなんてことも考える必要はなくなるじゃないか。これは、おそらく当時ユダヤ人たちから実際に言われていたことで、パウロの伝えるキリストの福音に何とか文句をつけるための意地悪な屁理屈。その背景にあるのは、パウロの福音は人間にとって甘すぎるという批判です。その教えでは、人間の生活は一向に清くされない。むしろ恵みに甘えて、罪を真剣に悔い改めることもなくなってダメになると考えている。だから、理屈でもって文句をつける。

7節からの言葉も同じです。「またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないですか。」人間の方が悪ければ悪いほど、その人を救われる神の恵みが際立ち、神はすばらしいとの賛美があふれる。確かにそういう面があります。だからと言って「もっと悪いことしていいってことじゃないか」というのは屁理屈に過ぎないのですが、でも確かに福音の論理をつきつめていくと、そういうことになるかもしれません。そして実際、教会の歴史においてはそういうねじれた理解に走った人もいたのです。

ですから私たちも気をつけねばなりません。私たちの弱さのゆえに、ねじれた福音理解に陥ってしまうことがある。実際私自身もまだ信仰が浅かった頃、同じように考えていたところがある。すべて恵みによって救われるのだから、生活がきよくなくても気にしなくていいのではないか・・。そういう甘い考えで、大変恥ずかしい生活を送っていたのが洗礼直後の頃。でもそこから神学校に入って、牧師として訓練を受けるようになって、そういうことじゃないと分かってくる。でもそうすると今度は逆に、他のクリスチャンたちの信仰の甘さが気になってしまう。他教派の方で、「うちの教会の先生は、すべては心の問題だから、心がイエス様とつながっているなら何やってもいい。全部ゆるされる、と言ってくれるから、とても気持ちが楽になった」などと聞いて、大変複雑な思いになったり・・・。クリスチャンといってもみんな好き放題、言いたい放題で、愛ややさしさに欠けている現実にがっかりしたり。そういう思いの中で、「ただ恵みによって救われる」なんていうのは、虫が良すぎる信仰だななどと思ったりしました。それはパウロを批判したユダヤ人たちと同じ考え。

どちらもねじれた福音理解です。生活はどうでもいいと恵みに甘えるのも歪みだし、甘すぎると言って人を裁くのも歪みです。そのどちらでもなく、この不真実な者をも救いに導いてくださる神の救いの真実を、その恵みの重さを、ただ大切に大切に受け止めさせていただきたいと思うのです。

福音は虫が良すぎると思ったなどと申し上げました。でも、そういう虫が良すぎるほどの救いでなければ、救えないのが私たちだということが分かってきた、それが今の私でもあります。そして、そうやって虫が良すぎるほどの大きな恵みをいただいたと分かったからこそ、新しく生きたい、その恵みに応えたいという風に心は導かれてきました。確かに福音というのは、無償の神の恵みを教えてくれますが、タダほど高いものはないなんて言いまして、本当に福音の喜びを知った者は、新しく作り変えられずにはいないものです。だから、皆さんに福音の喜びを知ってほしい。私たちを救いに導く神の誠実、神の真実の凄みを知ってほしい、それがパウロの願いであり、神様ご自身の願いであるのです。