2020719日申命記101718、ローマ2511

「神の裁きは恐ろしく平等」

 

子どもメッセージ:

「最後の審判」ということを考えると怖いね。「おのおのの行いに従って」、善い行いをしている者は永遠の命に、神様に逆らう者には怒りと憤りが与えられると教えられています。こうやって聞くと、自分は天国に行けるのか、不合格と言われてしまうのではと心配になるかな。でも、イエス様がちゃんと導いてくださるから大丈夫ですよ。イエス様を信じる者は永遠の命を与えられる、これが福音です。本当は、私たちは信じることさえできない。でも、イエス様が信じさせてくれる。善を行う者にも作り変えていってくださる。

 ちょうどこの間、自分が洗礼を受けた時のことを思い出す機会がありました。先生は、本当に何も解っていなくて、本当に信じているのかどうか自分でもあやしいと思うくらいだったけど、「イエス様を救い主と信じているでしょ。なら大丈夫。必ず聖化されるから」と言って、洗礼を受けさせていただいた。牧師さんは、神様を強く信じていたんだね。みんなもイエス様を信じているなら大丈夫だよ。必ず聖化されて、最後の審判の時も守られます。そういう信仰は、みんなの中にあるでしょう?まだ信仰告白していない子たちばかりだけど、信仰はあると先生は思っています。でも、まだ告白したくないのは、クリスチャンと名乗るのが嫌だとか、いろいろあるかもしれないけど、みんなにとって本当はとっても大切なことだからじゃないかな。大切なことだと分かっているから、どうしたらいいか分からない・・。でも、それが信じる心です。その心が大事なんだよ。神様は、そういう心をちゃんと見ていてくださる。

 

 

 先ほど子どもたちとも確認しましたように、ここにはいわゆる「最後の審判」ということが書かれています。「神が正しい裁きを行われる怒りの日」、その日神は、おのおのの行いに従ってお報いになる。善を行う者には永遠の命を、不義に従う者には怒りと憤りをもってお報いになる。

悪を行った者が、神の正義の怒りによって裁かれる、これは至極もっともで、こういう裁きがないならこの世はまったく報われない。今はどんなに傲慢に、権力を振るっていたとしても、必ず神がその悪行に対して怒りと憤りを示される。そう信じることができることで、救われる思いになる。でも、自分もまた裁きの対象になるというと、話は別です。「人を裁く者よ、あなたも同じことをしている」とありました。人のことではなく、しっかり自分を見つめなさいと言うのです。そうすると困ります。「それぞれの行いに従って報いが与えられる」この御言葉は本当に困ります。不安がよぎる。行いが問われるなら、自分は救われないのではないか。みんな後ろめたさがある。

少し整理をしなければいけませんが、私たちは行いによって救われるわけではありません。ただ神の恵みによって救われる、これが大前提です。自分では自分の救いのために何もできない。でもキリストが十字架と復活によって命への道を開いてくださったから、そのキリストをただ信じるだけでいいのです。でもキリストを「ただ信じる」というのは、そんなにお気軽なことでもありません。やっぱり信仰告白するのには覚悟がいります。このローマ書でも、「信仰すなわち従順」ということを確認しました(15)。信じるということは、全面的に信頼して言われた通りに従うということと同じであって、その模範はアブラハム。アブラハムのように、神をひたむきに信頼して、どこへ向かっているのかさえも自分で分からないけど、ただいつでも神様にぴったりくっついて生きていく。信じるというのは、そういう人生の構えであり、生き様そのもの。今日の御言葉で言われている「行い」という言葉も、その人の一生涯全体のありようとか、その人の心の奥底にあることをひっくるめて、その人がどういう風に生きようとしたのかということを表す言葉。

そう考えると、キリストを信じるというのは、キリストにぴったりくっついて、キリストの教えを大事にして、キリストと共に、キリストに従って生きていくっていうことで・・、やっぱりそうなってくると不安がよぎるのですね。私は本当にキリストを信じていると言っていいのか・・・考えてしまいますね。あるいは、まだ信仰告白していない人たちは、「信仰告白なんてとても自分には無理だ、逃げたい」と思うかもしれない。でも、そう思ってしまう人たちに今日の説教を最後まで聞いてほしい。

 

改めて御言葉を読みましょう。「忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり」とあります。「忍耐」というのは聖書において大変重要な言葉です。それは、「我慢、辛抱」という辛気臭いこととは、ちょっと性質が違います。「希望を見つめ続ける力」と言ってもいい。いつでも神の希望の約束を見つめ、そこにたどりつくために、どんな逆風にも負けないで、自分の信じた道にふみとどまるということです。病の時もトラブルの時も、迫害の時も、この道こそが希望の道だと信じて、キリストと共に朗らかに生きていく。キリスト者と呼ばれることを誇りとし、キリストの教えの通りに神を愛し、人を愛し、敵さえも愛し、善をもって悪に打ち勝つ。そんな風に、「善=キリストの道にふみとどまる」という忍耐です。

栄光と誉れと不滅のものを追い求めるとあります。この「誉れ」は「評価、価値」という語であり、神様からほめていただきたいという素朴な願いの反映です。あるいは、「真に価値あるもの」を求めるという意味にもとれます。そして「不滅」、時代が移り変わっても、決して朽ちることのない真理。そういうものを追求する心。そんな高い精神性。

反対に「反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります」とあります。「不義に従う」というのは面白い言葉です。「不義不正に説き伏せられる、説得に服する」というニュアンスです。「みんなやっているのだから、君もやっていい。むしろ、やりなさい。そうするとみんなと仲良くなれる。さあ、空気を読んで!!」あるいは、「組織のために、そういう良心は捨てなさい」そんな風に、「説き伏せられる」ようにして悪に進んでいくということが、私たちの現実にはたくさんあるでしょう。「・・・わたしだって、こんなことやりたくないんだけど・・。仕方ないんだよ。」と、自分で自分を説き伏せるような、悲しく苦い経験です。誰にも経験があるのではないでしょうか。

 でもそういう風にして、不義に説き伏せられるがままになるのではなく、キリストに従うのだ。その説得に負けたままの自分ではなく、キリストによって勇気を得て、それを打ち負かすような自分でありたい。そういう心をもって、キリストにぴったりくっついて歩んでいこうとする生き様。それが、ここで言われている「善を行う」ということです。そういう心があるかないか、そこが肝心なところで、それだけが判断基準。その点で神様はまったくぶれない、えこひいきがない。それが後半の御言葉で言われていること。

「すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが降り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神は人を分け隔てなさいません」

「神は人を分け隔てしない」これは、「顔を取ることをしない」、すなわちうわべだけで判断しない。神は心を見る。表面上の信仰深さとか、評判のいい振る舞いだとか、そういうところで判断しない。その点で、神の裁きは恐ろしく平等で、そこではユダヤ人もギリシア人もないと言う。ここでわざわざユダヤ人を引き合いに出してきたのがポイントですね。これは暗に、ユダヤ人が優遇されるということはないのだよ、と言いたいのです。民族的にユダヤ人の正統的な血統を引いていようと、あるいは、割礼とか安息日順守とかの伝統を大事にしていようが、そういうものは優遇条件にはない。あるいは、断食や施しといった善行をいくら積み重ねても、小手先だけの偽善であっては意味がないというのは、イエス様も言われていたこと。神は心を見られる。神とぴったりくっついて生きていこうとする真の信仰かどうかだけが、裁きの物差しになる。そこにはユダヤ人もギリシア人もない。つまり、安全地帯はない。逆に言えば、その信仰があれば、ギリシア人でも救われる。

 

こういう教えを前にして私たちもまた問われずにはいない、私の内にそういう信仰があるのかどうか。自分は本当にキリストを信じているといっていいのかと、ためらいを覚える時はありますね。人にはそれぞれの主の導きがありますから、長く礼拝から離れてしまう時を過ごす人もいれば、誘惑に負けてしまって、まったく世俗の汚れにまみれた生活をしばらく続ける方もいる。洗礼は受けたけれど、こんなのでクリスチャンと言えるのかと、自分自身が一番よく分かっている。牧師になる前の私は、まさにそうでした。今でも依然として、自分はニセモノだという意識は抜けません。牧師ですから、それなりに聖書を読んで信仰も深まりましたが、他の立派な牧師さんに出会うたびに、自分はニセモノだという思いにさいなまれる。皆さんの中にもそういう方がいるかもしれません。ちゃんと毎週礼拝に通っていても、あるいは教会の役員として立派に努めておられても、自分はダメなクリスチャンだ、偽物だと・・。でも、自分の信仰に自信がある人なんて誰もいないのだとも思います。自分で自分が信じられないから、イエス様を信じて、この人生を明け渡す、それが信仰ということです。

神は心をご覧になるのだ。外面じゃなくて中身だ、心だ、真の信仰があるかどうか、それだけが問題だと言われました。私たちは、うわべを取り繕うことさえできないのに、心だと言われてしまうともうお手上げです。でも、先週も学びました。神の憐れみが、あなたを必ず悔い改めに導くのだ。神がその憐れみによって、恵みによって、必ず私たちのうちに信仰を生み出し、育ててくださいます。私たちには何もないのです。誇るべき何もない。私たちの内からはどんなに絞り出しても、まことの信仰を生み出すことはできない。でも神が生み出し、育ててくださいます。

アブラハムだってそうでした。神とぴったりくっついて歩んだアブラハムの信仰が模範としてある。でも、あのアブラハムの信仰もまた、神様によって生み出され、だんだんと育まれていったものです。彼はイサクの誕生の約束がとても信じられなくて失笑してしまったり、完全な信仰者からは程遠い。でも、そんなアブラハムが、それでも神様に導かれるがままに歩んでいく、その歩みの中で、信仰を豊かに育てられ、深められ、信仰の父となっていくのです。それは、神様の恵みの御業です。そういう恵みによって、神様は私たちの内にもまことの信仰を生み出し、それを育てていってくださいます。

 

今、自分がニセモノだ、ダメなクリスチャンだと自分を責めておられる方もいるかもしれない。でもね、ニセモノだと思うのは、ホンモノになりたいからでしょう。それは、あなたの内に起こされている、まことの信仰のかけらです。つかもうとしたら消えて無くなってしまうほどの、はかない信仰かもしれない。でも、聖霊があなたの内に起こしてくださった、信仰は確かにあります。だから大丈夫です、私はキリストを信じていると言っていいのです。神が見てくださっているのは心です。私たちの見てくれの悪さ、これまで積み重ねてきた実績のまずさではなく、いつでも、今この時の、私たちの中に生まれた心を、この心だけを神は見ていてくださるのです。本物の信仰者になりたい、キリストとぴったりくっついて歩んでいきたいと願う、その心を、神様は、ちゃんと見ていてくださいます。だから私たちも、この神がくださった信仰のかけらを、大切に育てていきたいと願うのです。