2020621日 ホセア41619、ローマ1:2432

「ほったらかしにされたこの世界」

 

 先週から私たちは、あまり読みたいとは思わないような御言葉に取り組んでいます。神の御心に背く人類の罪と、それに対する神の怒りの裁きということを教えてくれる御言葉。全体的に重苦しいトーン。その中で、ひと際異なる響きがあった。それは25節の後半から、「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。」

こういうところは、朗読する時に、どう読もうか悩みます。でも恐らくは、叫ぶように読むのが正しいのです。きっとパウロが、勢い余って興奮して発した賛美の声。この時代、手紙といっても口述筆記で、パウロ本人が筆を執っているわけではない。パウロが話すのを、助手のテルティオ(ローマ16:22)が筆記しました。だからパウロの手紙というのは、パウロが原稿なしで語ったものです。それゆえ、時には脱線したり、本筋と離れたところで盛り上がってしまったりして生々しい。そして、パウロは時に、興奮して叫ぶようにして賛美や信仰告白をする。南アフリカからの宣教師デベット先生が、説教の途中でハレルヤ!!と叫んだことがあったが、同じ思いなのだと思います。語りながら、色んな感情が込み上げてきて、抑えきれなくなるのだろう。ここもそういうところ。

 「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン」、これを叫ばずにいられなかったのは、造り主である神が、ふさわしくほめたたえられていないという罪の現実への憤りがあふれ出したから。その直前は25節「神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られたものを拝んでこれに仕えたのです。」先週からずっと問題になっている、人類の不義と不信心、そして偶像礼拝の問題です。ポイントになる語は、「神の真理を偽りに“替える”」という語。同じ意味の語が、実は23節にあった。「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像に“取り替えた”のです。」このように自分勝手に「取り替えて=すり替えて」しまって、まことの神様と向き合うことから逃げ続けるというのが、人間の不義の本質なのでしょう。それに対してパウロが憤っているのだと思います。「神様を勝手に取り替えちゃダメなんだ、そんな傲慢なことは許されないんだ」という思いが込み上げて、「造り主こそ・・アーメン!!」と叫んでしまったのではないでしょうか。

それほどに、パウロにとって、造り主としての神様の存在は絶対でした。神を、大いなる造り主として認めるということ。それはそのまま、自分は被造物に過ぎないことを認めるということでもあります。自分は造られ、生かされているということを覚えることです。生かされているに過ぎない。でもまた、限りない愛をもって生かしていただいているとも、信じていい。造り主は、誰よりもご自身の作品を愛し、作品をよく知っておられます。私の取扱説明書をもっとも把握していてくださる。私たちの体や心が、どういう風に使えば一番輝いて、どういう用い方をすれば病んで壊れていくか、造り主が一番よく知っていてくださる。だからその造り主の御心に従う、そこに人間本来の道がある。

それがパウロの根本的な信仰でした。しかし、それがなされていないという罪の現実があるのですね。大いなる造り主を、造り主としてふさわしくあがめ、感謝していない。それどころか、何も語りかけてこないような偶像を自分勝手に作り出して、神の真理を偽りにすり替えてしまっているんだ。そういう私たちの思い上がった神関係の倒錯、不誠実こそが私たち人類の根源的な不義の問題だと、パウロは考えているのです。

 

そして、その垂直な神関係がぐちゃぐちゃのアベコベの逆さまだから、水平な人間同士の関係も社会関係も、全部ぐちゃぐちゃのアベコベの逆さまになるんだ。倫理も道徳も、なにもかも。そして人間は、そういう逆さまな世界にあって、自分を自分で持て余してしまって、正しく扱うことができなくて、それでみんな壊れていく、病んでいく。社会が腐敗していく・・・。それが、ここでパウロが言おうとしていることです。そのうってつけの具体例としてパウロが挙げるのは、非常に具体的な同性愛的性行為の問題です。当時のギリシア・ローマ世界では、こういう慣習が広まっていて、とくに男性の間の同性愛が多く行われ、むしろ高尚な愛情とされていたようです。しかしパウロはユダヤ人ですから、そのような慣習を造り主の定めに反する行為として嫌悪していました。

24節「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため彼らは互いにその体を辱めました。」より具体的に26節「それで、神は恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。」実はこの26節の言葉の中にも「取り替え=すり替え」という語が隠されている。「女は自然の関係を自然にもとるものに“変え”」というのがそれ。「取り替え=すり替え」を鍵にしてつながっているのですね。つまり、神をすり替えてしまうような人間のアベコベな傲慢さは、本来の創造の秩序としての性のタブーをも平気で踏みにじって、自然の関係を不自然な関係にすり替えてしまうのだ。そういう具合に、垂直関係の逆さまが、水平関係の逆さまにつながっている。

ここでは注意が必要です。同性愛の問題は、現代においても悩ましい問題ですが、当時とはまったく状況が違います。最近の生物学の成果によると、性同一性障害ということで、少数ながら同性しか愛せないように生まれついた人もあることが明らかにされています。そのような人にとっては、同性を愛することが「自然」となります。改革派教会でも牧会に関する特別委員会が発足し、LGBTの方への対応の問題に慎重に取り組んでいます。ですから、今日のような御言葉から、同性愛的性行為がすべて問答無用に罪であって恥ずべきことだと単純に結論付けてしまわないようにご注意いただきたい。教会においてはこれまで、そのような断罪がなされ、自分の性的葛藤に苦悩する人々を置き去りにしてきました。

そのような少数者と、そうでない人、つまり性的嗜好や好奇心で同性愛的性行為をも楽しもうとする人との違い、線引きがどこでできるのか、残念ながら今の私たちにはよく分からないところがあると思う。ただ、今日の御言葉で問題とされているのは、間違いなく、後者の方です。造り主が定められた男女の結婚という制限を無視して、それを平気で踏みにじって、ただ自分たちの快楽を求めてやりたいように突き進む、人類の倒錯が問題になっているということなのです。そうである以上、これは同性愛の問題だけでなく、今日における「乱交的文化」と言えるような性的無秩序全体の問題でもあります。

ネットで調べましたら、今は日本のアダルトビデオ産業というのは世界で断トツの規模で、年間約2万タイトルがリリース。その陰で女性が出演を強要されるなどの深い闇が広がっているようです。それは氷山の一角で、ネットの世界は無法地帯になっていて、もっと悪質な動画が垂れ流されている。明らかに何かがおかしい。この社会がすでに壊れているということが、そういうところに象徴的に映し出されている。

聖書を知っていても知らなくても、人間世界の倫理的常識においてタブーとされてきたことがあるし、これをしては人の道に外れる、これをしては、あるいはこれをさせては、人間が壊れる、おかしくなると、私たちはどこかで感じているはずなんです。神に与えられた「良心」というセンサーが働いている。でも、タブーというのは一度破ると、タガが外れて、人間の欲望が暴走します。センサーはどんどん鈍くなっていきます。性的な欲望というのは特に象徴的かもしれないですが、問題の本質は何でも同じです。食欲、金銭欲、名誉欲、知識欲、達成欲、あるいは怠惰欲・・なんであれ、造り主のよしとするところを超えて人間の欲望のままに突き進むなら、もうその暴走は止められない。そしてその果てに、人間は病んでいく、社会は壊れていく。

 

この世界の造り主である神様は、そういう私たちをご覧になって、何を思っておられるのでしょうか・・。前にも言いましたが、こういう時に人は勝手なことを言います。「神がおられるなら、もっといい社会にしてくれ、人間の暴走を止めてくれ」。あるいは、「だから神など信じられないのだ」と言う人もいるでしょう。

この病んで荒れ廃れた社会の闇を深く見つめている人ほど、「神も仏もないよ、あるのは人間の欲望だけだ。それが真実だ」と、言うかもしれない。しかし今日のところで、パウロが教えてくれているのは、まったく違うことです。パウロは当然のことながら、神がおられると信じている。ただ今は、神はこの世界をほったらかしにしておられると、言っているのです。神は今、暴走する人類に対して、落ちるところまで落ちていけと、ほったらかしにしておられるとパウロは言うのです。

面白いですね。造り主をあがめることを知っている人は、同じものを見ていても、その解釈が違うのです。私たちの目に映るのは病んだ世界なのです。パウロも同じです。彼もまた、深い絶望をもって、退廃したギリシア・ローマ世界の深い闇を見つめている。でもそこで、「神も仏もない」とは言わない。彼にはいつもどんな時も、神が見えている。

 

改めて24節「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ・・」、また26節「それで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。」さらには、28節に一層明瞭「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。」

この三つの言葉、すべてに共通して用いられているのは「引き渡す、手放して相手に渡す、任せる」。この場合それは、人間の欲望のままに任せるということです。造り主をふさわしくあがめることも感謝することもしないで、偽物の偶像とすり替えてしまうような人たちに、これ以上何を言っても無駄だから、もう好きにすればいい、落ちるところまで落ちればいいと神は手を引いてしまわれたのだと言われているのです。その結果として人間の欲望が暴走を止めないでどんどんエスカレートして、手の施しようがないくらい社会の病が広がってしまった。それが私たちの見ている現実です。

実はそれがすでに、神の怒りの表れであって、すでに罰が下されているのだと解釈をされることが多いです。確かにそうかもしれない。ほったらかしということこそ、最も恐るべき怒りの表現なのだというのも、とてもよく分かる思いがする。ただ私には、もう一つのイメージがどうしても消せなくて、私はこの神の放任ということを考えながら、あの放蕩息子の帰りをひたすらに待ち続ける父親の切なさを思い出していた。息子が悔い改めて帰ってくるのをただ待ち続け、好きなように放蕩させたあの父親の思い・・・。人は、落ちるところまで落ちないと、悔い改めることのできないものです。だから、それまではほっておくしかない・・・。

怒りの放任か、待ち続けての放任か。神様の思いはどちらなのでしょうね。どちらも正解なのかもしれません。

また、「引き渡す」という言葉が鍵だと申しました。この「引き渡す」という言葉は、全然違う意味でも用いられます。8:32をごらんください。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。「御子をさえ惜しまず死に渡された」 この「渡す」が「引き渡す」という言葉です。私たちを、落ちるがままにほったらかしにしておられる神は、でも同時に、私たちのために、独り子イエスの命を引き渡してくださった方であるのです。

 

その神の思いは、どこにあるのか。それぞれに静まって、受け取らせていただきましょう。改めて静かに考えてみてください。この世界の造り主である神様は、今、私たちの壊れた現実をご覧になって、何を思っておられるのでしょうか・・。