2020913日 エゼキエル16:59-63,ローマ3:19-20

「もう何も言わなくていい」

 

 子どもメッセージ

 親や先生から怒られた時に、言い訳したくなる時、あるよね。「早く宿題やりなさい。→今やろうと思ってたのに・・・」「どうしてあんなズルいことをしたんだ。→だって、みんなやってたから・・・」「どうしてお母さんのシュークリーム食べちゃったのよ→だって、おいしそうで、食べたい気持ちを抑えられなかったんだ。あんなとこに置いてるのが悪い・・・」。こういう言い訳は、アダムとエバの時からずっと繰り返されてきている、私たちの悲しい習性。罪人は言い訳をする。人にも、神様にも。

 最後の審判の時も、きっとそうやって言い訳をしたくなるんだろうね。「正しい者はいない、一人もいない」と先週学んだように、お前の人生は間違いだらけだと、神様からいろんな罪をあばきたてられるのかもしれない。あの時、弟をいじめたな。あの時、友達に冷たくしたな・・、自分のことしか考えてなかっただろう。自分では少しも悪いと思ってなかったことまで、むしろ正しいと思ってやってきたことも、残念ながら、他の人を傷つけたり、悲しませたり・・。そういうすべての罪があばかれて、お前の行いはまずかったと、もうなんの言い訳もできないくらい追い詰められる。それが最後の審判の時なのだと思います。でも、それだけ罪が数え上げられても、有罪とはされないのです。判決は無罪。イエス様が代わりに引き受けてくださったから。イエス様が十字架で身代わりに死んでくださったというのはそういうことなのです。

 

 

 では改めて今日与えられた御言葉を順番に読み解いていきましょう。19節「さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためです。」

「すべて律法の言うところは」ということで、律法という言葉が出てきます。ギリシア語ノモス、ヘブライ語のトーラー、大変大切な言葉で、文脈によって色んな意味で用いられるのですが、ここではとても広い意味で「聖書全体の教えるところ」ということ。もっと具体的に言うと、その直前の1018節で引用されているような聖書の教えは、という意味。

 それは、先ほど子どもたちとも確認したように、「正しい者はいない、一人もいない」という教え。みんな罪の下にいて、神から「迷っている=御心からズレている」と学びました。「罪の下にある」ということにも特別な注目をしました。これは、「罪」の支配の「下」にあるということで、私たちを牛耳って操る恐るべき支配者である「罪」の支配の「下」にあって、私たちはなすすべがないということを示しています。罪の下にあるがゆえに、時に私たちはなすすべなく、欲望のおもむくままに、あるいは怒りや憎しみのままに行動してしまう。さらには、自分ではよいことをしているつもりなのに、神様の御心から離れていくということが起こる。知らず知らずに「罪」にコントロールされていて、どうやっても神の御心とぴったり同じであることができない。そういう意味において、誰一人として「正しい者はいない」、それが聖書全体の教えるところのこと。

 そういう聖書の教えが、律法の下にある人々に向けられている、すなわち幼いころから聖書に親しんで生きてきた敬虔なユダヤ人に向けられている。私たちに当てはめるなら、『聖書』を大切に読んで、神様の御心を求め、理解しようとしているまじめな信仰者たちと言ってもいいと思います。そういう人たちに向けられている、あてはまる。それは逆に言うと、そういうまじめな信仰者も例外ではない、ということです。「正しい者は一人もいない」のですから、例外ではない。これはつらい宣告ですよね。だって、律法の下にある人々、聖書に親しんできた人たちというのは、この地上にあって特別な存在じゃないですか。そういう人たちは、ある意味で、人間の中で一番、神様に近い人。近くあろうと願っている人と言ってもいいかもしれません。でも、その彼らにも「正しい者はいない。善を行う者は一人もいない」という、聖書の言葉が当てはまるというのです。

そうだとすれば、その他の全人類は、神の裁きに耐えることなどできないのは当たり前ですね。「すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになる」と言われているのはそういうことです。神様から教えと戒めをいただいて、一番熱心に神様に従おうとしてきたユダヤ人でさえ、神の御前で正しくないとされるのだから、その他の全人類も皆、神の裁きを前にして口をつぐまざるを得ない。裁きに服するよりない、ということ。

 

そういう悩ましい事情を別の言葉で言い換えたのが20節。「なぜなら、律法を実行することによっては、誰一人神の前で義とされないからです。律法によっては罪の自覚しか生じないのです。」またも「律法」という語が使われていますが、こちらの場合はまさしく律法、すなわちモーセの十戒を中心とした聖書の教え・戒めのことを指してます。先に212からのところで詳しくお話しした。具体的には、モーセ五書と呼ばれる創世記から申命記にかけて記された神様の教え、その中には細かな祭儀規定や共同体のルールもありますが、その中心は十戒であり、さらにそれを煮詰めていくと、神への愛と人への愛となっていく。それが、神の民としての生き方のルールなのですね。このように生きるのですよと神様から与えていただいた道しるべ。

でも、それを完璧に行うことができる人はいない。どれほどに道徳的に高潔な人であっても、神の前では、義とされない=合格とはされない、というのです。ポイントは「神の前で」というところ、これが効いてます。人の前では、立派な人はたくさんいる。私たちの周囲でも、信仰篤い道徳家で、愛情豊かな人はたくさんいらっしゃる。しかし、神の前ではだれひとり、合格には満たない。この点において、人間は恐ろしく平等です。だから、どんな人であれ、自分を誇ることができません。むしろ、『聖書』を学び、律法を行おうとすると、「罪の自覚」が生じてくるのだという。このことは後の7章で詳しく語られる。

この「罪の自覚」というのは、自分の中に確かに「罪」が存在している、モンスターのようなおぞましいもの、自分ではどうにも制御できない恐るべきものが巣食っているということが、はっきり分かるようになってくるということ。それは律法を行おうとすると生じて来るもの。行っていない人には生じない。律法を行おうとすればするほどに、そういう自覚が生じる。それはなぜかというと、律法の教えのようにはできないからです。律法を実行しよう、つまり神を愛し人を愛して生きようとするのだけど、うまくいかない、そういう経験をするからです。行おうとしなければ、できない自分を知って苦しむこともなかった。律法を行いたい、神の御心に従って生きてみたいと思うから、自分の「罪」に気付いて苦しくなるのです。そういうことは皆さんにもよく分かると思います。

ちょうど先週、まじわり誌の原稿で「教師の入信記」を書いていた。自分自身、キリストに人生をゆだねようと思ったきっかけは、罪の自覚。ある方のことを憎くて憎くてどうしようもなくて、お酒を飲んでも飲んでもその苦しさが消えない。自分の中には確かに聖書に教えられているような罪というモンスターがいると思い知らされた。とてもじゃないけど、愛せないと思ったのです。その人のことを愛せない。イエス様はあの十字架の上で、父よ彼らをお赦しくださいと祈られましたけど、そんなことはできない。そう考えると苦しくて、罪に呑み込まれそうで、そしてそこで初めて私は手を組んで祈ったのですね。助けてください、神様、このままじゃ僕はダメになってしまう・・。罪から救ってくださいなんていう祈りは、当時の私にはまだできませんでした。でも、そういうことを祈っていた。このままじゃダメになる、助けてくれ。それは、神様の愛を知ったからこその苦しみだったと、今振り返ると思います。聖書の教えを知らなかったなら、あいつが悪いと憂さ晴らしをして済んだのかもしれない。でも、そうはできなかったのは、聖書に示されていたイエス・キリストの愛の姿を知ってしまっていたからです。そして、自分の罪に気づいたのです。

 

そういう罪の自覚を持つというのは、苦しいことです。聖書なんて知らないままなら、こんなこと考えなくて良かったから楽だったのにと思う。罪の自覚を持てば持つほど、最後の審判を考えるのが怖くなる。いや、順番は逆ですかね?最後の審判ということを真剣に考えるからこそ、自分の罪ということ、罪の下にある自分の悲しさということを嘆かずにはおれなくなる。パウロという人はいつもそういうところでものを考えていた。だからローマ書の連続講解を始めてから、何度も神の裁きのことを共に考えている。これからも考えざるを得ない。そこでは、まさしく丸裸にされる。神様には何も隠すことができない。すべてお見通しです。だから、もう何も言い訳もできません。「すべての人の口がふさがれる」とあるように、もう何も言えないのです。言い訳も弁解もできず、ただ黙って裁きの席に着くよりない。でも、そうして裁きの席に着くその時に、私たちは思いがけない言葉を聞くのです。・・・あなたの罪は赦されている、という言葉です。あなたの罪は、イエス・キリストの十字架によってすでに贖われている、もう何も心配しなくていい。それが、イエス・キリストを信じる者に与えられる判決であり、神の裁きの結果です。

それは違う意味での異議申し立てがなされそうな判決です。それはおかしいでしょ、これだけの罪が訴えられているのに、無罪はないでしょ、合格はないでしょと、私を責める人が言い立てるかもしれない。私たち自身の良心も我慢できない。自分で自分が赦せない。でも、神はそういう言葉ももう許されない。何も言わせない。そんなことは分かっている、この男の罪深さはお前たちの誰より私がよく知っている。しかし、イエス・キリストの十字架によってこの男の罪はすべて贖われた。だから、もう誰にも何も言わせない。すべて赦されている。これが最終判決だと、言ってくださる。こういう判決を前にして私たちは、もう何も言えないし、何も言わなくていいのです。何も言わず、赦していただけばいいのです。

最後に、今日一緒に読んだエゼキエル書の御言葉を思い出してください。1663です。「こうしてお前がおこなったすべてのことについて、わたしがお前を赦すとき、お前は自分のしたことを恥じ、自分の不名誉のゆえに、二度と口を開くことはできなくなる」私はこの言葉は本当にすごい言葉だと思っています。ここにも、口がふさがれるとあります。神の無限の赦しを味わうがゆえに、私たちは自分のこれまでの人生を恥じ、言葉を失うのです。

神様ってすごいですよね。私たちを打ち砕くために、徹底的に叩きのめすというのではなく、すべてを赦すっておっしゃるのです。この神の赦しを前にして、私たちはもう何も言えないし、何も言わなくていいのです。何も言わず、今自分の心にあるすべての思いを神の手にゆだねて、赦していただきたいと願います。