2020614日 エレミヤ52025、ローマ11823「神に言い訳はできない」

 

子どもメッセージ

 今日の御言葉の最後のところ「滅び去る人間や鳥や獣や這う者などに似せた像ととりかえたのです」、これは偶像礼拝のことを言っていますね。

子どもと親のカテキズム10問ではこう教えられています。「聖書が教えている唯一のまことの神様のほかには、命の無い偶像がいるだけです。偶像とは、太陽や月、動物や植物、人間などを神さまのようにすることです。偶像を拝むことは、神様が最も悲しまれることです。」でも悲しいことに、この日本の国では偶像がたくさんあって、それを拝んでいる人が多い。どうしてだろう?

前に、中学生の子と信仰告白の学びをしていた時に、どうしてだか考えてもらったことがあります。その子はこう答えました「みんな、本当の神様のことを知らないからだと思う。」本当に  そうだね、みんな知らないから、間違ったことをしてしまう。ちゃんと教えてあげなきゃいけない。でも、ちゃんと教えてもらってないからといって、だから知らなくても仕方ない、おれは悪くないと、そういう風に言うことはできないよ。それが、今日のところでパウロ先生が言っていることです。

確かにちゃんとは聞いてないかもしれない。でも本当は、知っているはず。何かこの世界には、自分を超えた大きな大きな力が働いているのじゃないか。そう感じているから、みんなお正月になると初詣に行って願い事したりするんだよね。私たちの中には、神様を求める心がある。そして、神様の教えが心の中に埋め込まれている。人を殺しちゃいけないとか、困った人を助けてあげるとか、聖書を知らない人でも知っている。それは、神様が、みんなの心の中に神様の教えを埋め込んでいてくれるから。だから、悪いことをすると胸が痛んだりする。それが人間です。   人間はみんなそういう風にできている。

だから、神様のことなんて全然知らなかった、だから偶像を拝んでしまったと、言い訳をすることはできない。そうじゃなくて、本当は、神様から逃げているんじゃないかと、パウロ先生は言うのです。神様のことをうすうすは知っていたのに、でも真剣に求めることなく、ずっと神様から逃げてきたんじゃないか・・・。私たちも、聖書は知ってはいても、同じかもしれないね。神様との真剣なお付き合いから、逃げているのかもしれない。逃げ続けていると気まずいよね。怒っていると思うと余計につらい。でも、神様はいつでも、あたたかく待っていてくださるんだ。私たちが真剣になるのを。真剣に神様と向き合って、自分にも向き合って、歩んでいこうと、みんなが立ち上がるのを・・。

 

 

 今日の御言葉は、神様の怒りについて書かれています。あまり読みたいとは思わない、気持ちが重くなるようなことが書かれている。連続講解説教をしていると、こういう御言葉ともきっちり向き合う必要が出てくる。これからしばらく、「神様の主権を認めず、無視し、それに背く、私たち人類の罪」ということを考えねばならない。その罪に対する神の怒りと裁きということが言われているのですが、こういうメッセージは教会においてもそんなに頻繁になされるわけじゃない。神の恵み、神の愛ということはよく知っていても、神の怒りということはあまり考えたことが無い、考えたくないという方が多いかもしれない。ましてや、まだ聖書を読んだことのない圧倒的多数の日本人は、そうでありましょう。私自身を振り返れば、教会に来る前は、神の怒りなどということを考えたこともなかった。教会に通い信仰を持つようになってからも、そういうことが聖書に書かれているということはあまりよく認識していなかったところがあります。聞いてはいたのだと思うけど、聞きたくないから耳に入れないようにしていたのではないかと思う。

 先週水曜日の祈祷会の時に、長老方と先主日の説教について分かち合っていましたが、「神様をなめきっている時代」という表現について長老がコメントをくださった。私たちが伝道していく圧倒的多数の日本人は、それ以前の状態ではないか。なめてさえいない。まだ知らない。例えば学校の先生をなめる、無視するというからには、学校の先生の言うことを聞かないと怒られるということが前提にある。それを分かっていながら、あえて無視して、反抗して、怒られたって俺はこわくないとうそぶく、これがなめているということ。しかし、多くの日本人はまだ  学校を知らない、先生に怒られるということも知らない。そういう前提がない。だからまずは、ここは学校で先生がいるんだということを教えなきゃいけない。つまり、天地を創造された神様がおられて、私たちはこの神様の御心に従って生きることが求められているということを伝えなければいけない。そのようにコメントしてくださって、大変教えられました。本当にそうだなと思った。

同時に、自分自身を振り返ってみる時に、まだ教会に通い始める前に、そういう前提がまったくなかったかというと、そうでもなかったと思います。つまり、自分を超えた大いなる神がおられて、その神の御心に沿って生きるということが大切なのだということは、なんとなく覚えていた。それは、聖書をモチーフにした作品などから受け取ったものでありますし、もっと深いところで、人間としての根本的な潜在意識のようなところで、なんとなく神様のことを意識しながら生きていた、そういうところがあったと思います。だから、神様についてまったく知らないわけじゃない。そして、自分や自分たちの時代が決して正しい道を歩んではいなくて、隠しているような悪事も「お天道様が見ている」というような意識、そしていつかひどい報いがあるのではないかという漠然とした不安は抱えていたように思う。それは私たちの誰もが心の内にもっている神様とのチャンネル(カルヴァンは「宗教の種」という)があるから。

後のほうでパウロが言うように、神の永遠の力と神性がこの被造世界のそこかしこには現れ出ていて、だれでもそれを通して神様のことをある程度は知ることができる。だから私も、なんとなく神様を意識して生きてはいたのです。でも、考えないようにしていた。それは、面倒くさそうだからです。神への信仰に生きるというのは、どうにも面倒くさそう・・。ましてや、神の怒りなどということは考えたくもない。聖書を読み、求道の道を進み始めても、そういうことは都合が悪いから、あまり考えないように逃げてきた。そういう人が、他にも多いのではないでしょうか。

 

そういうわけで、神の怒りということは、私たちにとって都合の悪い真実です。しかし、今日はこのことを取り次がねばなりません。ここから逃げている限り、救いの喜びということも分からないからです。神の怒り、それは「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して」天から現わされると言われています。不義という言葉が二回繰り返されますが、後の方は「人間に対する罪」としての不正、不道徳で、「神に対する罪」としての不信心、不敬虔と対になっています。それに対し、もうひとつの「不義」は、先週分かち合いました「神の義」ということに真っ向から対峙するような、私たちの根本的な姿勢をいっていると思います。「神の義」、それは神の正義ということでもありますが、ここでの場合は、罪に歪んだ私たちの世界にどこまでも責任をもって関わり、正しい関係を回復させようとしてくださる、神の救いのご意志ということと理解してきました。でもそういう神の思いをまったく嘲笑うかのように、いや、私たちはあなたと関わりたくない、あなたとお付き合いして生きていくなんて面倒でたまらないと、神との関係を切ろうとしていく私たちの方向性。神に対して不義理を重ねる、私たち人間の根本的な逃げの姿勢ということが言われている。

そういう風にして神から離れようとする人間が重ねる具体的な不信心、不道徳に、神は天から怒りを表される。これは究極的には最後の審判というかたちで明らかにされるものです。最後の審判、それこそ私たちにとって究極的に不都合な真実です。ですからそういうことは考えたがらない。クリスチャンであっても、どこかでそれを真剣に考えることから逃げている。

関根正雄先生が注解で言っています「われわれが神の怒りというものを物凄いものとして感じないとすれば、それはわれわれが目が見えなくなっているからです。・・・本当に終わりの日に裁きがあるということを、まじめに考えている人が現在どれだけありますか。生まれながらの人間で、そういうことを本当に仕事や生活の問題よりももっと重要に考えて、終わりの日の神の怒りをどうしたら逃れ得るかと考えている人がいますか。・・それをパウロは弾劾していると思うのです。そういう意味の神の側からの罪の指摘というか、弾劾ということを深く通らないで、軽々しく義認とか、救いとか、神との平和とか、そんなことを申しましても言葉の綾にすぎません。」

大変厳しい指摘です。しかし、それは裏返せば、その最後の審判の厳しさということを真剣に考える時に、義認とか、救いとか、神との平和ということの恵みがどれほどにありがたいものかということが見えてくるということでもあるのです。それを味わいたいと願います。神がキリストにおいて与えてくださる救いというのは、その最後の審判を逃れ得るように、私たちを赦し、責任をもってきよめてくださるというものです。だからこそ、この神に関わっていただくことが必要なのです。その関係を切ろうとしちゃいけないのです。

 

続きを読みましょう。今日の御言葉はそういう神の怒りの裁きということが教えられているわけですが、興味深いのは20節の最後「彼らには弁解の余地がありません」、これはすなわち、そういう神の怒りの裁きということについて、誰一人として知らなかったと弁解する余地はない、言い訳はできないと言われていることです。誰一人として、すなわち聖書を知っている者は当然のこととして、聖書をまだ知らない者も、誰一人例外なく。

「なぜなら、神について知りうる事柄は彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。」これは、完全な神知識ではないけど、神がおられるということをうすうす感じることのできる程度には、神様がヒントを示してくださっているということ。ここで言われていることは、  教理の言葉でいうと一般啓示とか自然啓示と言われることです。それは、決して十分な啓示ではない。特に、罪から救われるにはどうすればいいのかということは、聖書において示されたイエス・キリストの救いの福音(特別啓示)を通さなければ知ることができない。やはり聖書が大事。聖書を通してでなければ、神様とはどういう方か、またその真の御心を知ることはできません。でも聖書を知らなくても、大自然を見ることで何となく神々しさを覚えて、人間を超越する存在へのおそれを抱くということは誰にでもある。あるいは神様の裁きについて明確に知らされていなくても、私たちの心には神が埋め込んでくださっている良心というセンサーがついていて、悪事をしてしまった時に、良心のとがめを覚えて神の目が気になったりする。それが、世界万民に共通する人間の本質的宗教性です。そういう意味で、神様のことをまったく知らない人などいないのです。でも、うすうす「知っていながらも」逃げ回って、神を正しく「神として」お取り扱いせずに、適当にやりすごしているのではないか。それを、知らなかったなどと言い訳はさせない。誰も言い訳はできないと、言うのです。

21節「なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。」大事なのは「神として」というところ。神様を神様として正しくお取り扱いする。それが、すべての人に求められている。しかもそれは難しいことではない。日々、神様をあがめ、感謝をするということ。天地万物を創造された神様の大きな大きな手の中で、この小さな私が生かされている。自分は創られ、生かされている者であって、何の力もない。罪に満ちていて生きている値打ちもない、でもそういう者を、よしとしてくださって、生かして、人生を導いてくださる神がいる。その神をあがめ、感謝する。それが神を神としてふさわしくお取り扱いすること。健やかな神関係。でも、それができない。神を神として認めて、神をあがめ、感謝し、あるべき神関係の下に自分を置くこと。これができるというのは特別なこと。多くの人はこれができない。それが私たちのかたくなさであり、根本的な  逃げの方向性。神の義に抗う、人間の不義ということなのです。

ここでも関根正雄先生の注解の言葉を紹介したい。関根先生は「神を本当の意味で神として認めまいとする、そういうことが人間の固有性としての不義ということで、そういう力に人間は駆り立てられている」と言います。そして「そうやって神が神であることだけは認めまいとするのは、人間は皆自分が神だからです」と言うのです。これは大切な指摘だと思います。

現代の日本においても、私たちが覚えていないといけないのは、多くの人は自分を神としているということです。よく日本では八百万の神々とか、仏教的世界観が問題だなどとも言われますが、私は違うと思います。本当に問題なのは、自己神論です。それはあからさまに表れてはきません。自分を自分の神としていると、露骨に言う人もいないし、それを自覚している人も皆無です。多くの場合、その人たちは、自分は無宗教だと思っています。日本の公教育においては、   戦後60年にわたって「宗教的中立」の名目の下で、「無神論」「無宗教」が前面に押し出されてきましたから、現代日本人のほとんどは、そういう態度が宗教的中立であると思い込んで、みんな無宗教ですと言うのです。でもその実際は、「無神論」ではなく「自己神論」といえるものです。つまり、神がいないのではなく、実際は、神の位置に「自分」を置いていて、自分の願望、自分のメリットだけを第一にして好き放題に行動するわけです。私が自由に決めて何が悪い?そうなれば当然、道徳は乱れ、互いを思いやる愛も感謝も失われて、社会がやせ細っていきます。

 

今日はもう触れることができませんから、来週に回しますが、23節には偶像崇拝のことも記されています。聖書においては、偶像崇拝ということは大問題で、最も避けるべき罪として警戒される。私はそれが長年ずっと疑問だった。どうして偶像崇拝がそれほどに嫌悪されるのか。でも、この偶像崇拝ということの中に、先ほどから申し上げている神を神としない自己神化の問題も一番如実に現れてきます。神を正しく神としないで、本当の神関係から逃げようとしつつ、他方では、もっとお手軽な「神っぽいもの」が欲しくてそれぞれの偶像を求めて、自分勝手に拝むのです。それが、初詣とか初日の出にたくさんの人が集まる理由です。無宗教であるはずの日本で、どうしてあれほどたくさんの人が初詣に出かけたり、初日の出を拝みにいったりするのか。みんな、自分は無宗教だと言ってまことの神様との関係を巧妙に回避しながら、願いごとだけは叶えてほしいと初もうでに殺到する。そこにあるのは、自分、自分、自分です。本当の意味での畏れも信頼もそこにはない。お手軽なパワースポット巡りがあるだけです。まことの神とお付き合いすることからは徹底的に逃げながら、神っぽいものを適当に拝んで自己満足している。

そういう私たちの、不誠実で不義理な、神様とのお付き合いの姿勢、それが今日のところで 「不義」という言葉で表されていることだと思います。そういう不義に対して、神は怒りを表されると言うのです。大変恐ろしいことです。そして、そうやって聞くと、ますます逃げたくなる。つらくなる。そう思われる方もいるかもしれない。でも、お怒りになるというのは、愛の裏返しでもあるのです。

 

神はあの創造の最初の時から、怒りと悲しみをもって私たち人類に呼び掛けておられます。あの堕落の後、隠れて逃げ回るアダムとエバに、神は呼び掛けられました。どうして私から逃げるのか、どうして私と真剣に向き合おうとしないのか。それは、怒りの叫びという形をとった、最も切ない愛の表現です。今も同じです。神はいつも、逃げないでくれと言っておられるのです。あなたに本当に必要なものは私のもとにあるから。本当に必要な平安は、救いは、赦しは、慰めは、すべて私のもとにしかないから。だから、ここに帰ってきなさい、逃げないでくれと。私たちの不義をものともせずに、どこまでも追いかけ、深い愛情をもって関わり、救いへと導こうとしてくださいます。