2020628日 詩編1114、ローマ12432②「悪いと知っているのに」

 

子どもメッセージ

 実は先日、交通違反のキップを切られてしまいました。茅ヶ崎の駅前で警察の罠にかかった。横断歩道を渡ろうとしている人を無視したとのこと。なんだよそれー!と腹が立って、「もっと悪い運転してる人いっぱいいるでしょーが」と心の中で思いながら、言われるままに車を停めて尋問を受ける。「職業は?」うっ・・と思いながら、「牧師です」。あーそうですか、牧師さんですかと言われ、そこで、自分も我に返る。そうだ、苛立ってはいけない。これも神様がくださったこと。大きな事故になる前に気づかせてくださった。そう思ったら、なんだか気持ちも穏やかになってきて、なんだったら警察の人にお礼でも言いたいような気分になって、書類を作ってるのを待っていた。ようやく書類ができて、警察の人が来たから、にこやかに対応。でも、罰金があるのだった。これが高い!!それでまた悪い心が・・・。でもなんとか、善をもって悪に打ち勝て。最後は、「安全のためにご苦労様です」なんて言ったりして。そういう具合に、牧師さんと言ってもしょせんは罪人、交通違反したり、それで苛立ったり、落ち込んだり、悪いこと考えたり。

だから今日の御言葉なんかも、聞いてるとつらくなってきますね。悪意、陰口、ねたみ・・。これらは神様が「してはならない」って言われること。神様が「してはならない」って言われたことは、やっぱりしないほうがいい。してしまうと、みんな傷つく。自分もおかしくなる。でも、それが分かっていながらも、言い訳したりしながら、罪を犯してしまう私たち。こういう罪を一つ残らず数えられたら、僕は絶対に不合格。でも、そういう人間だけど、イエス様の十字架のおかげで、神様に赦していただいたんです。そして、神の子としていただいて、図々しく神様にお願いしたり、牧師もやらせてもらっています。だから、感謝してる。神様に本当に感謝してる。

残念ながら、悪い心は、ずっと残ります。自分の中でイエス様の愛が大きくなればなるほどに、自分のダメさもまたいっぱい見えてくる。これは自分では、どうにもできない。でも、イエス様がそれを赦してくださるから大丈夫。イエス様は、そんな底なしのダメな僕を救ってくださった。ありがたい。本当にありがたい。だから、僕ももっときよくなりたい。自分の悪い心と戦いたい。そういう思いも、神様がくださった恵み。みんなの中にも、今日の御言葉を通して、そういう思いを与えてくださると信じてます。

 

 

 28節「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。」

 新共同訳では分かりにくいが、この言葉は語呂合わせになっています。「また、彼らが神を知ることを役に立たないと考えたので、神は彼らを役に立たない心に引き渡されました。」という具合に、「役に立たない」という言葉を重ねて、皮肉な言葉遊びがされています。

この「役に立つ」というのは元々、「テストに合格と認める」という言葉です。ですから、彼らが「神を知ることは役に立たないと考えた」というのは、「自分たちにとって不合格、必要ない」と判断したというのと同じです。被造物である人間の方が、造り主である神様に対して「あんたの存在はおれたちにとって邪魔だ、役に立たない、必要ない、つまり不合格!!」とつきつけているわけですから、なんと身の程知らずなサカサマ状態・・と嘆きたくなりますが、それが私たちの周辺世界の状況でありましょう。

こういう傲慢に対して、もう神様のほうでは呆れてしまって、これ以上何を言っても無駄だからと手を引いてしまわれて、ほったらかしにしておられる。それが先週から言われていること。今日の言葉では「無価値な思いに渡された」ということ。「神よ、お前は不合格だ」とお前たちが言うのなら、好きにすればいい、落ちるところまで落ちればいいと、彼らを「無価値な=役に立たない、くだらない」心に引き渡されたというのです。

 

29節からをご覧ください。ここに「してはならないこと」が具体的に記されています。先週分かち合ったような同性愛的性行為の問題も、当然「してはならないこと」です。ただあの問題は、人間世界のすべてがひっくり返った逆さま状態の象徴的事例ではありましたが、自分には関係ないという人もたくさんいた。しかし、29節以下に書かれていることはもっと一般的で、誰にでも当てはまる普遍的な罪の問題です。その中には、例えば人の陰口だとか、ねたみだとか、とても具体的で日常的な、小さな罪も数えられる。でも、結局人間の問題というのはいつも、そういう小さな罪の積み重ね。私たちの時代の深い闇と感じているようなことも、突き詰めていけば、こういう一人一人の小さな罪の積み重ねなのです。こういう小さな悪が積み重なった結果として、「生きにくい時代」になるのです。

「あらゆる不義、悪、むさぼり(自己中心的な貪欲)」

「悪意に満ち=いじわる」。これはくせものです。意地悪な人は、自分の意地悪に気がついていなかったり、あるいは、分かっていてもやめられません。善意を装って、皮肉な嫌味を言ったりします。自分がそうなので、よく分かります。

「ねたみ」。私は男性なので、特に男のねたみの闇の深さ、おぞましさということを覚えさせられます。女性も同じでしょうか。バレバレなのに、隠そうとするから一層こじれる。それを認めることができないのも悲しい。自分にも隠そうとしている。

「殺意、不和、欺き、邪念にあふれ=人殺し、ケンカ、だまし、悪だくみでいっぱい」

「陰口を言い、人をそしり=誹謗中傷」。今日のネット社会の一番の問題と言っていいでしょう。匿名に隠れての誹謗中傷。誰かを引き落としたいとみんなできっかけを求めていて、ちょっとでもダメなところが見えたら、言葉の暴力で血祭にあげていく(集団リンチ)。それが正しい情報かどうかも関係ない。そうやって誰かをいじめ殺してうっぷんを晴らす。

「神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き(=自分を大きく見せたがる)」。せこくて、小さくて、何も持っていない人間が、自分の正体をごまかすために、あるいはそういう現実から逃げるように、やたらに見栄を張り、ほらを吹くのです。私自身もそういう人間だから、よく分かるのです・・・。

その後にも、「悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲」と続いていきます。「無知」は「物分かりが悪い」。「不誠実」は「約束を守らない」。「無情」は「人の心が分からない」。そして「無慈悲」は「思いやりが無い」ということです。

こういうひとつひとつの小さな罪が、「してはならないこと」として数え上げられている。してはならないし、したくもない、まさに「無価値な思い、役に立たない心」のオンパレード。でも、そういう心にひきずられるようにして、「してはならないこと」を繰り返すことで、互いに傷つけあい、貶め合い、「生きにくい時代」にしてしまっているのです。

 

そして32節。「彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。」

このようなことを行う者が死に値する。これは恐るべき言葉ですね。ここでの死とは、永遠の破滅であります。いわば神様から、永遠の不合格をつきつけられて、命への門が完全に閉ざされるということ。それが、アダムとエバの時からずっと示されてきた神様の定めです。神が「してはならない」としておられることをすれば、死が待っている。だから、それじゃいけないよ、命のほうに来なさいと神様は招いてくださるのですが、その招きを無視する人が多いのですね。やがてそういう人たちが、最後の審判において永遠の破滅へと振り分けられていく。そう考えると恐ろしいことなのですが、その最後の審判の時におそらくは、たくさんの人がクレームをつけるのではないかと思います。そんなこと知らなかったよ、というクレームです。「このようなことを行う者が死に値するという神の定め」なんて知らなかった。「知っていながら行っている」とパウロは言うけど、そんなことはない、知らなかったよと、たくさんの人が反論するのではないかなと思うのです。

それを伝えるべき私たちの責任を思う。でも、そういう人は、もしそれを聞かされていたとしても、どうでしょうね。それで心を改めるのかといえば、そうでない人のほうが圧倒的に多い。死に値するからやめなさいと言われたらやめたのかと言えば、ほとんどそれはありえない。むしろこう言うと思います。「そんなのはデタラメだ。」

もちろん、良いか悪いかと言われれば、そりゃあ良くないとは思うよと、みんな言うでしょう。意地悪や陰口がいいことであるはずがない。みんな後ろめたさを感じている。でも、永遠の死に値するなんて、そんな教えは馬鹿げている。そんなことが聞きたいのではない。そういう神はいらない、そういう信仰はいらない。神様に期待するのは地上の幸福と安らかな死、それだけ。そんな面倒なことをいう神様は役に立たないと、まさに不合格をつきつける・・・。人間はそのようにして、どこまでも永遠の問題と向き合うことから逃げて、自分の過ちをごまかし続けるのだと思います。そしてそれは、私たちクリスチャンにもあることですよね。私たちは高みから批判できる身分ではない。本当に、神の御心と向き合っているか。

まことに罪の問題は複雑です。本当はみんな分かっているのです。「してはならない」と神が言っておられることは、しないほうがいいと分かっている。でも分かっていながら、どうにも自分では止められなくて、言い訳したり、仕方ないのだと逆ギレしたりして、後ろめたさをごまかそうとする、それが私たち。みんな色んな言い分があるのです。

こんな悪いこと本当はやりたくないけど、ストレスがたまってどうしようもないんだ。やらないと仲間外れになる、クビになる、生活ができない・・。意地悪やねたみ、誹謗中傷、そういうものも、強い劣等感や満たされなさの裏返し。そんなことしないでも生きていけるような満たされた人生ならよかったのです。親に愛され、周囲に愛され、自分のやりたい仕事について、キラキラと輝いている人であれば、そんな醜い感情からは無縁かもしれない。でもそうじゃないから、自分はそうじゃないから、人を誹謗中傷することでなんとかバランスをとって生きているんだ・・、そういう人もいるのだと思います。みんなそういうところがあるのです。こんな環境じゃなかったら、あんな挫折がなかったら・・。してはならないことをしてしまう裏側には、自分では癒せないような深い深い傷や、自分一人ではどうにもできないような、深い深い闇が広がっている。だから、どうしようもない、自分では止められない。

でも、それでいいのかと言えば、いいはずないですよね。みんな、分かっているでしょう。じゃあ、神様に助けてもらうしかない。神様は、助けてくれますよ。どうにもできないよって思うかもしれないけど、自分の小さな世界の中だけで考えているからどうにもできないだけで、神様にはできる。罪の泥沼から、自分の力で抜け出すことはできない。でも、必ず神が抜けださせてくださる。抜けださせてくださいと祈るのです。あるいは誰かのために、抜け出させてあげてくださいと祈るのです。それが祈るべき祈りです。

 

最後、もうひとつのこと。そうやって「自分でそれを行うだけでなく、他人の同じ行為をも是認しています」ともあります。「是認する」というのは、してはならないことをしている人を見て、「そうそう、それでいい、私も同じだ、人間なんてそういうものだよ、仕方ない」と受け入れ、よしとするということです。これを問題視されるのは、私は本当につらい。心当たりがあります。言い訳がゆるされるなら、それは相手に対する同情心からの慰めである場合がほとんどです。そういう間違いを繰り返してしまう弱さがよく分かるから、仕方がないねと是認してしまう。でも、そうやって誰かの弱さをよしとしていくことで、自分自身の罪をごまかすことにもなっているかもしれない。そのことを、今回改めて考えさせられました。

人に甘い人は、自分にも甘くなります。自分と同じ罪を抱えている人がいれば、安心してしまう。そういう弱さを私たちは持っている。「あなたはそれでいいよ、私も同じだ」と言いながら、自分の後ろめたさをごまかしているのではないか・・、そう問われているのです。

こうやって詰められると、本当にぐうの音も出ない思い。・・・もう、認めましょう。自分のごまかしを。今、私たちは、そうやってちゃんと自分の罪と向き合うようにと、毎週厳しい御言葉を与えられて、導かれているのだと思う。だから、降参して認めるしかない。そして認めたら、もうあまり自分をいじめても仕方ない。そういう自分を赦してくださるイエス様を信じて、自分でも自分を赦してあげるのです。そして、必ずきよめてくださるイエス様を信じて、きよめてくださいと祈り始めるのです。

 

イエス様は全部知っておられる。私たちの隠している罪も。でも、全部ご存じの上で、それを引き受けるために十字架で死んでくださった。だから、私たちの内にある自分ではどうにも止められない悪い心も、全部赦してくださいます。そして、止めてくださいます。十字架の傷のついた大きな手を広げて、私たちの暴走の前に立ちはだかって、止めてくださる。この主の大いなる赦しの光の中で、自分のダメさを見つめて、きよめてくださいと祈り始める。そこから、すべてが変わるのです。