202067日 ハバクク214、ローマ11617「わたしは福音を恥としない」

 

子どもメッセージ:

「わたしは福音を恥としない」この御言葉を覚えたい。

みんなに聞いてもいいかな?自分はクリスチャンですって、周りの人たちに言えるかな?恥ずかしいと思ってしまう子もいるかもしれないね。わざわざ自分から言い出すのは恥ずかしくてできないかな。でも、人から聞かれたら、クリスチャンですってみんなはきっと言えると思う。そういう風に言いたいという思いをもっていると思う。

「福音を恥とする」とは「イエス様を恥とする」こと。私はイエス様と友達ではありません、そんな人知りません、と言うこと。もし自分が誰かからそんな風に裏切られたとしたら、とても悲しいね。イエス様はそういう裏切りも味わわれた。でもね、イエス様は絶対に私たちを裏切らない方なんです。あいつのことなんて知りませんとは言いません。

想像してみてください。最後の審判、私たちは一人一人神様の前に引き出されて、生きている間に犯したすべての罪を数えられて、とても恥ずかしい思いをする。でもその時にイエス様は、こんなやつのこと知りませんよとは、おっしゃらない。そんな恥ずかしい子の友だちではありませんとは言わない。もしもイエス様がそう言われたら、私たちは永遠に滅びるしかありません。神様の怒りを受けて、永遠に滅びるしかない。でも、そうならないように、イエス様が私たちの身代わりに十字架で死んで、神様の怒りを全部引き受けてくださったんだったね。そんなイエス様が、お前のこと知らないなんておっしゃるわけがない。神様、私はこの子を知っています。こいつのために私は命をささげたのです、どうか赦してやってくださいと、頭を下げてくださる。それが、イエス様の救いの福音です。イエス様がどんな時も味方です。だから、勇気をもって生きることができる。

そういうイエス様のことを、私たちも大切にしたいね。

 

 

パウロは決然と断言します。「わたしは福音を恥としない」。この御子イエス・キリストの到来についてのよき知らせを恥としない。そしてそれを伝えることを恥としない。先ほど子どもたちとも分かち合いましたが、私たちにはたじろぐ思いがないでしょうか。学校や職場で自分がクリスチャンだと名乗れない方も多いかもしれない。日本の国にあっては、キリスト者は特殊な人々と思われているのを感じます。パウロの時代にあっても状況は同じです。いやむしろ、文字通りの新興宗教としていかがわしいと警戒されました。人々の反応として代表的なのは、アテネのアレオパゴス広場での説教の失敗(使徒17章)。死者の中からのイエスの復活ということを聴くと、嘲笑われて、また今度と離れて行った。そんな非合理的な馬鹿げた話は聞いていられない。昔も今も同じ。

でも先週も申し上げましたが、どれだけ馬鹿にされようが十字架と復活ということは福音の根幹ですから、それを譲るわけにはいきません。それがよりよく伝わるようにと工夫する努力は惜しみません。相手がどういう背景で、どういう論理で物事を考えているか、どんなことに悩み、不安を感じているかをよく見極めて、その人にとって入ってきやすい入り口を設定する。そうやって言葉の通じない人とも通じ合いたいという努力は惜しまない。でも、福音を歪めるわけにはいかない。イエス・キリストの福音をそのままに語る。実は、パウロが「福音を恥としない」という時に意識にあるのは、そのことなんです。変な人だと思われて恥ずかしいとか恥ずかしくないとかの次元のことではなくて、「私は福音をそのままに伝えるよ」ということです。どんなに嘲笑われても、拒絶されても、イエス・キリストのことをそのままに伝える。みんなに受け入れやすいものには決して変えやしないという決意。それは福音には力があるとの確信があるからです。

勝田台教会で奉仕していた時、教会近くのミッションスクールの朝のチャペルで奉仕をする機会があった。私にとっては貴重な機会であると同時に大きなチャレンジ。勝田台教会には毎年その高校からたくさんの方が礼拝にいらっしゃって、多い時は50人くらいが一度に来る時もあったのですが、そうなりますと会堂の空気もガラッと変わってしまって、ホームグランドであるはずなのにアウェイになってしまいます。ましてや高校の大ホールで、何百人という高校生たち。朝一番の低いテンションで、「お前の話など聞きたくない」というやる気のないオーラを全員でぶつけてくるわけです。そういう中で、私の一番好きなザアカイの物語を思いっきりしてきました。もちろん集中を集めるような色んな工夫をしながらではありますが、思い切りど真ん中の直球で、罪からの悔い改めとイエスと共に歩む新しい命について語ってきたのです。終わった後で宗教主事の先生から思いがけないことを言っていただいた。あれだけはっきりと、イエス・キリストの救いについて断言してくださったことに感銘を受けたと言ってくださったのです。やはり高校の先生方も、毎回アウェイ感を感じておられるようで、どうすれば高校生たちが興味をもって聞いてくれるだろうかと試行錯誤しておられる。そういう中で、どこか彼らに媚びてしまうような思いで、新聞に載っていたちょっといい話を紹介したり、高校生活の中での教訓のような話をして、キリストの十字架と復活、罪の赦しと永遠の命の福音は話さないで終わってしまうということも多いのですとお話しくださいました。そういう「聞いてくれそうな話」に流れてしまうという。でも、今日のはそうじゃなかった、この人は本気でイエス・キリストを信じているんだと思わされたと言ってくださった。そして、高校生たちもそれをちゃんと聞いていた、明らかに聞いていたと、喜んでくださった。私たちももっとまっすぐにイエス・キリストの福音を語りたいと思うとお伝えくださった。

このようなことを皆様に分かち合うのは、本当はちょっと気が引けるのです。でも福音をそのままに語るということを考えていただくために、あえて分かち合わせていただきました。私の説教を高校生たちが聞いてくれたとしたら、それは私がどうこうではなく、イエス・キリストの福音そのものが魅力的だからです。私たちはもっと、福音そのものの力を信じていいのだと思います。福音は、人間が本当に聞くべきよき知らせです。パウロは言います。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。」福音は神の力ですとの確信。「力」とは、ダイナマイトなどの語源になったデュナミス。福音というものにはそういう力がある。いやもっと言うならば、福音が伝えられるそのところに、「神の爆発的な力が必ず発動される」というのがパウロの言いたいことであります。

 

 そういうことを踏まえてこの16節を私なりに訳してみますと、こういう訳になります。「私は、福音=御子イエスについての素晴らしい知らせを、恥じることなくそのままに伝えます。なぜなら、今まさに生ける神が全力で働いておられて、私たちにこの知らせを伝え、永遠の救いへと導こうとしておられるからです。」パウロ自身は、そういう神様の本気モードの「力の発動」のために、自分が器として用いられているという喜びを持っていました。そして、自分の宣教活動を通して、まさに奇跡としか思えないような、神の「力の発動」を幾度も垣間見たのでしょう。福音を聞くことで、罪赦され、神から受け入れられて、荒れ果てた人間の魂がいやされて、病さえいやされ、人が変わっていく。どれだけ人にあざ笑われても、拒絶にあっても、たくさんの妨害にあっても、福音をそのままに伝えれば必ずそこには救われる者が起こされていく。この人には無理だ、この町ではどうやっても無理だと思っていたのに、人が変わり、教会共同体がそこに生まれて、その周辺の社会が変わって行き、天の国の喜びがそこに満ち溢れる。やがて終わりの時に来るべき栄光の神の国がもうすでに、今そこに立ち現われているかのような、喜びの経験!!。パウロはそういう経験をしてきたのです。私たちもそういう経験をするのです。

礼拝説教は神の国の最前線、救いの歴史の最新の1ページが今ここでめくられる。説教とはそういうものだと、習いました。私は説教をするときに、いつもそのように信じて語っています。今も生きておられる復活の主イエスが、私の口を用いて福音をお語りになる時、ここに神の爆発的な力が発動されて、失われた魂が取り戻されると信じています。御言葉によって人が癒され、造り変えられていく。実際にそういう経験をさせていただいてきた。だから確信している。福音には力がある。皆さんもそういう確信をもって、私と一緒に福音を聞いてほしい。この礼拝において沸き起こってくる爆発的な力を感じてほしい。

 

 続きを読みましょう。パウロはこう続けます。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。正しい者は信仰によって生きると書いてあるとおりです。」この言葉は本当に大切な御言葉で、特に「信仰によって生きる」というのは大切なことですから、もっと丁寧に分かち合いたいとも思うのですが、これからローマ書を一緒に読んでいく中で折に触れてこの御言葉に立ち帰りながら、深めていきたいと思います。ですから今日は、神の義ということに的を絞ります。福音には神の義が啓示されている=はっきり現わされている。

「義」これは聖書に独特の言葉遣いで、本当に意味領域の広い語ですから訳しようが無くてそのまま「義」としてきたところがあると思う。ギリシア語のデュカイオスネーで考えれば、元来法廷的な言葉で、ルールにのっとった正しさ。その線で考えると、神の義とは神の正しさ、人間の罪を決してゆるすことのできない神の正義。

この神の正義ということを真剣に考えることは大切です。それは神の厳しさを考えることでもある。その御前で問われる自分の間違い、罪深さということを真剣に問う。厳しい正義を要求される神は、私たちの罪を見逃してはくれない方。お前は間違っているとお怒りになる。その意味では、神の正義とはほとんど神の怒りというのと同じです。実際、この後の18節以下のところに神様の怒りということが詳細に書かれています。こういうことをちゃんと考えるのは大切なことです。特に私たちの時代というのは、神へのおそれを失っている(神様をなめている)時代で、誰もが自分を神として独りよがりに自分勝手に生きて、社会の規範も失われてしまいました。だから、神の正義の怒りと言う事を真剣に考えるのは大事。でも、それだけなら聖書の教えというのは私たちにとって苦しみでしかない。

福音とはそういうものじゃない。私たちはどうしようもない罪人だけど、その罪人の救いのために、神がその独り子であるイエス・キリストを与えてくださったというのが福音です。だから神の義というのは、神の正義の怒りだけではないのです。そうではなくて、それは神の救いというのと同じなのです。私たちはどうしようもない罪人だけど、その私たちを正しい、お前は無罪だと赦してくださり、義としてくださる。それが、このローマ書で言われている神の義ということです。それは3:21からの御言葉に明らか。23節から「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」これが、神が福音において明らかにしてくださっている「神の義」ということ。

 私はこの「神の義」を「罪に歪んだ世界をまっすぐに回復しようとされる神の責任感」と理解してみました。責任感という言葉がふさわしいのかどうか。神の慈愛でもいいが、そこに込められている「わたしは見捨てない」との神の決意をちゃんと受け取りたいと思った。神様にとって私たちの世界は、見るに堪えない汚れきった世界。もう面倒だ、捨ててしまおうと思われてもおかしくない。でも見捨てない、私たちとの関係を切らないで、むしろ義理を通して回復させようとしてくださる。それが罪の世界に対する神の愛であり責任感です。(「義」とは、関係概念でもある。失われた神関係が健全に回復されることこそ、救い・福音)

 

しばしば私たちは言います。神がおられるならどうしてこんな悲しいことが・・。今もコロナの問題、そのフラストレーションが爆発したようなアメリカの暴動、その背景にある差別と貧困の問題・・。そういったニュースを見ながら、どうして神は・・とつぶやきたくなる気持ちは分かる。でも、神様からすれば、悪いのはお前たちではないか。お前たちがこのぐちゃぐちゃの状況を作り出したのではないかとおっしゃりたいはずです。そもそも、神がおられるなら人間を助けて当たり前と思っているのが、私たちのおこがましいところなのであって・・・。私たちの方では、とっくの昔に神を見捨てているくせに。誰も神様の言うことなど聞こうとしていないくせに。「違うよ、助けてくれないから神を信じないのだ」と、みんな反論なさるかもしれない。でも、私たちの世界は神の助けを要求できるようなよいものではないのです。むしろ、神からとうの昔に見捨てられていてもおかしくない。それほどに汚れ切ってしまって、聖なる神には耐えがたいものになってしまった。

しかし神は、その私たちをお見捨てにならないのです。私たちとの関係を切ろうとされない。それが、聖書が教えてくれる神の義ということです。神はこの罪の世界をお見捨てにならない。それは私たちの創造者として責任があるからです。そこには深い愛がある。放蕩息子の父親と同じように、どれだけダメになっても、大事な息子なんだと抱きしめるような愛。この世界は、そして私たち人間は、今や歪みに歪んでしまっていますが、それでも神が丹精込めてお造りになられた、御自身にとっての最愛の作品です。そのように見ていてくださるから。だから関わろうとしてくださる。関係を切らないでいてくださる。はじめの愛を、義理を通される。

どれだけ私たちが愚かであろうが、もうノアの箱舟の時のように堪忍袋の緒を切ってしまわれない。忍耐して下さる。神は忍耐される。そして悔い改めを待っておられる。神は願っておられる。もう一度私たちが、神の子どもとしての自分を取り戻して、神様とのまっすぐな関係の中で健やかに歩み出すことができるように。私たちのあらゆる病の根源は、神との関係の喪失です。神を見失った時、人間は自分自身を見失い、世界の進むべき道をも見失いました。だから、神との健やかな関係の回復、これこそが根源的に必要です。

神は、そういう回復を与えてくださいます。それが神の義です。失われた者たちを探して、救って、神様の子どもとして回復しようとしてくださっているのです。そのために独り子イエス・キリストを送ってくださったのです。その命を私たちにくださったのです。私たちを救うために、見捨てないために、ご自分の独り子の命をお見捨てになられたのです。イエス・キリストの十字架、それは、罪に歪んだ世界を決して見捨てず、どうにかしてもう一度まっすぐに回復させようとしてくださる神の大いなる愛に基く決意であり、責任感の表明です。それが、福音において明らかにされている神の義ということです。

 その神の思いを、ただそのままに受け取らせていただく。それが信仰ということです。その神の熱烈なプロポーズを受け止めて、神様との真剣なお付き合いへと入らせていただく。それが信仰によって生きるということです。どうぞ私たちが、この神の義を示す福音を前にしてモタモタすることなく、神様との新しい関係へと進み行くことができますように。