202053日 レビ19:12、ローマ1:18① 「聖なる者たちへの手紙」

 

 今日からローマ書の連続講解説教が始まります。何年くらいかかるでしょうか、ちょっと見通しがつかない。この手紙は古来より、新約聖書の中でも最も重要な書物のひとつとして数えられ、福音の神髄が示されているとされてきた。ちょっと手が出せないと思って、ずっとためらってきた。でも牧師になって15年、何回も読み返す中で、ようやく私もここに書かれている言葉と自分が馴染んできたように思う。それは、いろんな勉強をして理解が深まってきたこともあるが、それ以上に、ここに示されている言葉によって自分が変えられて行っているのだと思う。今なら取り次ぐことができるかもしれない、そう思いました。でも、ためらいがありました。「ローマ書の連続講解をすると、人が来なくなる」と恩師が言っていたからです。やっぱり、難しい感じがするのでしょうね。そういうわけで、どうしようかなと悩んでいましたが、お二人の長老が背中を押してくださいました。先生、チャレンジしましょう。こんな時こそ、あえてじっくりローマ書をみんなで読んでいきましょう、と。

 こんな時こそ・・・、まさしく今は歴史的なウィルス禍の中にあります。礼拝に集まることもままならないこの状況をよく覚えておきたい。私たちはこの状況の中で、ローマ書を読み始めます。ともすると、恐れと不安に、あるいはむなしさにとらわれてしまいそうな私たちです。何かもっとピンポイントに、分かりやすい御言葉を分かち合って、励ましをいただきたいという思いにもなる。でもこんな時だからこそ、じっくりと連続講解に取り組んで、みんなで耳を澄ますのです。よく分からない箇所や、難しいと感じるところもあるかもしれない。でもよく分からないからこそ、聞き取ろうと必死で耳を澄ますのです。それが、不安の時代にあって一番必要なことかもしれません。不安な時代には私たちは動きたくなる。動いてないと落ち着かない。やらねばならないこともたくさんある。でも、動くためには、静まる時間も必要です。私自身、静まって耳を澄ましたい。あれやこれや、自分の内に沸き起こる色んな感情、色んな言葉を一度全部投げ捨てて、聖書に何が書かれているのか、神が今週の私たちに何を語ろうとしてくださっているのか、その静かな声を聞き取るために、ひたすら聖書研究に没頭し、丁寧に読み解いていく。そういう風にして、主の御前で静まって耳を澄ます。そういう営みが、今、そしてこれから始まる試練の時代に必要なのではないかと思いました。

 

改めて読んでいきましょう。今日は1:17に記された、挨拶といいますかパウロの自己紹介のところ。この最初の書き出しから、すでにボリュームたっぷりの内容で色んなメッセージが込められている。今日は特に、1節と7節を分かち合いたい。17節はギリシア語の原文では一続きの文章で、その大枠になっているのは1節と7節。「パウロから」「ローマの皆さんへ」という挨拶。

その書き出しは「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから」。原文では、「パウロです」という名乗りが一番最初に来る。これはパウロのいつものパターン。コリント書もガラテヤ書も、まず名乗り出るところから始まる。当時の手紙の慣習と言ってしまえばそれまでですが、私には何か強い覚悟のようなものを感じる。私パウロが、責任をもってあなたがたに伝えるという覚悟。

ザアカイの物語を分かち合った時にも確認しましたが、名前というのは重要なもの。その人そのもの。神は一人一人に名を与え、それぞれにオリジナルな救いの物語を与え、人生を導いてくださる。パウロ、この名は小さい者という意味もあると昔から言われてきた。かつてはサウロと名乗ること多かった彼ですが、キリストとの深い結びつきの中で、パウロ、小さい者と名乗るようになった。自分は本当に小さい者、主の憐れみによって生かされる小さい者、でもその小さい者である私に与えられた、大きな大きな救いの真理をあなたがたに教えよう。この私の名において、私を愛して救ってくださったイエス・キリストの救いの喜びをあなたがたに伝えようと、名乗り出る。そういう覚悟を感じる。

そういう具合に、「パウロス」から始まる手紙の書き出し。そしてすぐに続いて、「キリスト・イエスの僕(しもべ)」がくっつきます。パウロという人は、四六時中、そういう自意識で生きていたのでしょう。私は、キリストの僕だ。それを抜きにして、私はないのだ、という感じです。

「僕」、それは奴隷という意味もあります。自分を「主の僕」という言い方、これは聖書に親しんでいると当たり前になってきますが、考えてみると不思議な言葉遣いです。以前に私がお祈りの中で「しもべは、しもべは・・」と言っておりましたら、子どもたちが「しもべって何?」と聞いてきたことがありますが、聖書に親しんでいない人には分からないことでしょう。パウロの時代でもそうでした。ローマ世界の人たちは、自分をそこまでへりくだらせる様な表現はしなかったと言います。でもパウロは好んで、むしろ誇りをもってそのように名乗ったし、またすべてのクリスチャンに対して「みんなキリストの僕だ」と呼びかけました。

そこで大切なのは、へりくだりの意識ということよりも、「“キリスト・イエスの”僕」ということで、イエス様との強い結びつきの自覚です。自分はもう自分自身のものではなく、キリストの所有物である。キリストが我が主人、キリストが右に行けと言われれば行くし、左に行けと言われれば行く。古い私は十字架の主とともにもう死んだ、死なせていただいた。私の中には今や、イエス・キリストが生きている。キリストにもうすっかり満たされて、キリストの色に染められて、それほどにキリストと強く結びついている存在、それが「キリスト・イエスの僕」。

ちょっと子どもたちには分からないかもしれませんが、テレサ・テンさんの「時の流れに身をまかせ」という歌がありますね。私たち夫婦がやっている「ガチコミ」という番組で、クリスチャンが聞くと讃美歌に聞こえる歌を募集したら、その「時の流れに身をまかせ」を教えてくれた人がいた。言われてみると本当にそう。「もしもあなたに会えずにいたら、私は何をしてたのでしょうか?・・・時の流れに身をまかせ、あなたの色に染められ、一度の人生それさえ捨てることもかまわない。」これこそまさに、「キリスト・イエスの僕」の歌。こういうことなんです。

こういう具合に、パウロという人はイエス様にほれこんでしまっているのです。そういう人の言葉は理屈抜きに迫ってきます。この人の言葉を聴いていたら、どんどん私たちもイエス・キリストを愛さずにはおれなくなる。私たちの中でどんどんイエス・キリストが大きくなって、すべてにおいてすべてとなっていく。そしてそれは幸いなこと。キリストの色に染められて、人は本当の幸いを得ます。平安を得ます。パウロは、そこへと私たちを招いてくれるのです。

 

説き明かしを続けましょう。パウロの自己紹介は続きます。「神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから」。

「選び出され=選び分かたれ」という言葉の理解には、ガラテヤ1:1516が参考になります。「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」とある。パウロは、キリストの福音を異邦人に伝える、すなわち、まだ神を知らない人々に伝えるという、特別な役割を与えられているという強い自覚がありました。そのために、母の胎内にある時から「選び分けられ」、恵みによって「召し出された」と言っています。この強い自覚、ある意味では傲慢なまでの確信を、召命感といいます。今日の挨拶においても「主に召されて使徒となった」と言っている。こういう具合に、自分の召命感を最初に表明するのもパウロの手紙の特徴。

でもこのローマ書に特徴的なのはむしろ、手紙を送る相手であるローマの教会の人たちに対しても、「あなたたちは召されたのだ、召されて聖なる者となった」と呼びかけているところ(67節)です。その一点において、つまり「主から召された」という点で、私たちは同じだ。つながっているという意識があったのではないか。

実は改めて考えると、このローマの信徒への手紙というのは、パウロにとってまだ会ったことのない方々に向けて書き送った手紙です。ローマ教会といっても大きな会堂があったわけでなく、いくつかの家庭で集会がなされている。さながら今のコロナ禍で会堂に集えない私たちと同じようですね。そういう各家庭で回覧してもらうための手紙を送ろうというわけですが、まだ会ったことはない。顔も名前も分からない。でも分かっていることがある。この人たちは「主から召されている」人たちだ、そのことだけは知っているということなのです。

私もまた、この湘南恩寵教会に赴任する前、同じような思いで、皆さんに文書をお送りした。今もまだ同じような状況かもしれない。このウィルス禍の状況で、おはなしすることもままならず、まだ皆さんがどんな人なのかよく知らない。皆さんも私のことをよく知らない。でも一つだけはっきりと分かっているのは、キリストが私たちを結び付けてくださったということです。私たちは共に生きるように、共に奉仕をするようにと、キリストによって「召された」、その一点においてつながっている。その他に、どんな人間的なつながりも、本来必要ありません。その信頼関係さえあれば十分です。

パウロもそういう思いだったのではないでしょうか。私はあなたがたに福音を伝えるために主に召された。あなたがたもまたその福音を受け取って、主の僕として生きるべく、主に召された聖なる者たち。「召される」という言葉は、「呼ぶ、呼ばれる」という語をベースにします。イエス様はいつでも、罪の悲惨に死んでいる者を呼んでくださいます。木の上のザアカイの名を呼ばれたように(ルカ19章)、死んで墓に葬られたラザロを大声で呼び出されたように(ヨハネ11章)。わたしたちはみんな、そうしてイエス・キリストによって呼び出されます。それは、新しく生きるためです。その一点において、つながっている。イエス様に呼び出され、共に生きるように召された者たち。その一致こそがすべてです。

 

改めて7節の呼びかけを見てください「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。」今日はこの呼びかけを分かち合って終わりましょう。

「神に愛されている人たち」とあるのは、「愛する人たち」という言葉に、「神の」という属格がくっついた言葉です。「神が愛しておられる人たち」と訳してもいいのではないかと思います。ポイントは、「愛する」主体が「神」だということです。パウロはふつう、「愛する人たち」という呼びかけを多用します。しかし、ここは違う。「神に愛されている人たち」、実は以外にもこれは、とても珍しい言葉遣いなのです。それはやはり、パウロがこのローマの群れと、まだ一度も会ったことがないからでしょう。その意味で、個人的なつながりがなく、顔も知らない。「愛する人たち」と言ってみたところで社交辞令の域を出ない。でも、彼らが「神に愛されている」ということを、パウロはよく知っていました。パウロが彼らのことを知らなくても、神が彼らのことをよくご存じで、愛しておられる。

湘南恩寵教会の皆さんのことを考える時、私も同じことを思います。皆さんは、「神に愛されている人たち」です。私は毎日皆さんのことを覚えて祈っていますが、まだ皆さんのことを何も知りませんから、祈りが具体的ではありません。皆さんが何を悩み、どんな試練や誘惑と戦っておられるか、分からない。でも皆さんは、まぎれもなく「神に愛されている人たち」です。神はすべてを知っておられます。そのことに一切の疑いはありません。だから、私は日ごとに皆さんの体と魂を主におゆだねします。

そして最後、「召されて聖なる者となった」とあります。これは最初の1:1で、パウロの自己紹介において「召されて使徒となった」とあったのと、対になっています。聖なる者となったとはどういうことでしょうか。おもしろいですね。聖なる者になりなさい、ではないのです。レビ記ではそう命じられていました。しかしもはや、そうではない。「聖なる者となった」のです。それはどういうことか。簡単なことだ、それは「神に属する者とされた」ということだとおっしゃる先生がいる。その通りだと私も思います。「神のものとなった人たち」という翻訳もある。神の身内、仲間として扱われる。

「聖」というのは元来「分離」、特別に区別され、とりわけられているという言葉。それは神様の御性質。神こそが「聖なる方」。この地上のいかなるものとも同じではない創造者、全能者として、決定的に区別された特別な方。しかし、そういう区別されたお方に属するものとして、この私が取り分けられる。それが選ばれるということですね。救われるということです。関係を結ぶことなどゆるされない特別な方とのあいだに特別な関係をゆるされた「聖なる者たち」、それが私たちであります。ローマの人たちと同じように、私たちは皆、「聖なる者たち」として、ふさわしくないのに選ばれて、呼ばれて集められた者たちです。

 

ですから皆さん、自らを「聖なる者とされた特別な存在」だと意識して、今週をお過ごしください。私たちは、この病んだ世界の中にあって、命と希望の源である聖なる神とじかにお付き合いさせていただいている「聖なる者」「神に愛されている者たち」なのです。だからこそ私たちは、いつも上を向いてほがらかに歩みたいと思います。世界がどんなに混迷を深めても、不法がはびこり、人々の愛が冷えていったとしても、聖なる神といつも強く結ばれて、信仰と希望と愛に歩ませていただきたい、そう願うのです。