㉑「聖霊」を信じるⅡ

1)聖化を導いてくださる聖霊 

「慰め主」なる聖霊は、この私の内にも確かに生きていてくださり、キリストと結びつけていてくださいます。ですから、滅びに向かう古い生き方のままでいて、聖霊を悲しませてはいけません(エフェソ4:30)。神は、私たちに聖なる生活をさせたいと願っておられます。その実現のために「御言葉(教え)」と「聖霊」を与えて下さいます。聖霊は、御言葉に沿って私たちを清く作り変え、イエス様に 似せていってくださいます。この聖霊のお働きを、聖化といいます。Ⅱテサロニケ2:13「あなたがたを聖なる者とする霊の力」とあるとおりです。その力をすなおに受けとめて、変えられていきたいと望むなら、どんどん聖化されていくのです。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。(ガラテヤ5:22)」。聖霊は、こんな聖化の実りを結ばせてくださいます。 

●エフェソの信徒への手紙4:17-5:5(新p357) 

「・・・神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。・・・・」 

●テサロニケの信徒への手紙Ⅰ4:1-12(新p377) 

「・・・神が私たちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。ですからこれらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、ご自分の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神を拒むことになるのです。」 

 

2)聖霊は、散らかった心に住んでくださる 

慌ただしい日常生活の中にあって、「聖霊を拒まないで、むしろ聖化を祈り求める」ということを意識する、この一週間となりますように。私たちには、心がくしゃくしゃにかき乱されて、荒んでしまって、散らかり放題になってしまう時もあります。でも聖霊は、その汚い私の心にさえ住んでくださいます。どうしてこんな汚れた者の内に、聖なる神が住んでくださることがあろうかと思います。でも、汚れているからこそ、聖霊は私たちの内に住んでくださるのです。汚れているからこそ私たちには、掃除をしてくださる聖霊が必要です。 

聖霊のお働きというのは、つきっきりで指導してくれるコーチに似ています。私たちはみんな弱い者ですが、このコーチに励まされ、このコーチに手を引かれ、今週もゴールに向かって一歩一歩進んでいくのです。 

 

 

㉒「聖なる教会」を信じる

 1)「教会を信じる」とは

 ここまで「父なる神を信ず、御子イエス・キリストを信ず、聖霊を信ず」と三位一体の神への信仰を告白してきました。それと同等の意味で「教会を信じる」とは言えません。「教会」を神格化・絶対化して信頼の対象にすることはありえません。そうではなく、「教会を信じる」とは、聖書が示しているところの教会の本来の姿と、その存在の意味をよく理解し、そこからすべてを考えるということです。それはすなわち、人間の目に映る教会の姿に一喜一憂しないで、神様は教会をどういう存在として扱っていてくださるのかを考えるということです。教会の弱々しい現実にがっかりしないで、神の目に映る教会の真実の姿を信じるのです。

  私たちは現実の教会の姿にがっかりしているわけにはいきません。なぜなら、神は決してがっかりなさらず、教会を見放すということをされないからです。教会とは、「神が御子の血によってご自分のものとなさった(使徒20:28)」と言われるほどに、神にとってかけがえのない大切な存在として扱われているのです。

 

2)わたしたちの教会は「聖なる教会」であると信じる

  使徒信条は「聖なる教会」と言います。現実の教会は、赦される必要のある罪人ばかりの病んだ集団で、完全無欠な聖人の集まりではありません。でも、そんな教会が「聖なる教会」といえるのは、聖なる神様につながっているからです。教会は、たとえ現状がどんなに惨めでも、聖なる神様に召し集められた 「聖なる教会」としての本質は変わりません。

  だからパウロは、腐敗したコリント教会の人々にも「聖なる者とされた人々へ」と語りかけます。実際の教会はひどいありさまでしたが、パウロは信じていたのです。この教会もまた、神が選んでくださった「聖なる教会」だと信じていた。 だからあきらめていません。必ずその本当の姿にふさわしく整えられていくと信じている。教会を生かす聖霊の恵みの御業によって、きよく整えられると信じている。そして教会の人たちにも、自分たちの本当の姿を思い出させているのです。

●コリントの信徒への手紙Ⅰ1:2(新p299)

「コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリストによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。」

 

 

㉓「公同の教会」を信じる

 1)「公同の教会」とは

 「公同の(=カトリック)」という言葉は聖書にあるわけではないが、教会の 歴史の極めて初期の使徒教父の時代から用いられています。

【「一般的」ないし「普遍的」を意味するこの語は、キリスト教の用語として 以下のようなさまざまな意味を持つようになった。(1)地方教会と区別された、普遍的教会の意味。(2)「異端的」と区別された「正統的」の意味。 (3)伝統的に1054年とされる東西教会のシスマ(分離)以前の教会の意味。分離以後は、西方教会は「カトリック」、東方教会は「オーソドックス(正教会)」と自称した。(4)宗教改革以後は、ローマ・カトリック教会が 排他的にカトリックだと自称するようになった。】

<オックスフォードキリスト教辞典p185「カトリック」より抜粋>

 

2)空間と時間を超えて、一人の主のもとにつながる一つの教会

  地上には色んな教会がありますが、地域や教派のボーダーを越えて、一人の同じ主イエス・キリストのもとにつながる一つの「公同の教会」なのです。 それぞれの教会にはそれぞれの個性と役割があり、キリストの体の各部分として用いられ、同じ主に仕え、神の国の完成のために励みます。

  また教会は、「きのうも今日も、また永遠に変わることがない(ヘブライ13:8)」イエス・キリストを信じるという信仰において、過去・現在・未来のボーダーを越えて一致している一つの「公同の教会」です。それは、天地創造の前から キリストにおいて選ばれていた人たちの集まりです。旧約聖書に出て来るイスラエルの民も、教会の一員です。私たちは、何千年もの時を超えて受け継がれてきたイエス・キリストへの信仰を、受け継いだのです。

●エフェソの信徒への手紙4:5-6(新p356) 「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」

 

3)教会をあきらめず、みんなで完成まで走り抜く

「おびただしい証人の群れに囲まれている(ヘブライ人への手紙12:1)」との御言葉を思い出します。私たちは、先頭に立たれる主イエスの強い導きを信じて、どんな時もくじけずに、世界中の兄弟姉妹とともに、そして先人たちの力強い応援をいただきながら、教会の歴史を前に進めていきましょう。

 

 

㉔「聖徒の交わり」を信じるⅠ

 1)「聖徒の交わりを信じる」とは
「聖徒の交わり」とは、「①聖なるものに与ること」あるいは「②聖なる人々による交流(分かち合い、共有)」の両方の意味を含みます。「聖徒の交わりを信じる」とは、私たちキリストの教会という存在は、その両方の意味において「聖徒の交わり」なのであると信じるということです。

2)聖なるイエス・キリストにつながれる
  今日は「①聖なるものに与ること」について覚えましょう。
「聖徒の交わり」とは第一に、父・子・聖霊の聖なる三位一体の神との垂直的交流に与ることです。その中心にあるのは、主イエス・キリストとの交わり(霊的結合)です。聖なるキリストに強く結ばれることで、汚れた私たちが「聖なる者(聖徒)」とされるのです。そして、洗礼を授けていただくというのは、その「交わり」に入れていただいたということの確証です。
  洗礼を受けるとは、キリストに接ぎ木されるということです(ウ小教理95問)。私たちは弱い罪深い者だけど、キリストという聖なる頼もしい方に接ぎ木されることで根っこが変わって、これまでとは質の違う人生を歩み始めます。
●「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。(Ⅰコリント1:9)」
●「洗礼を受けてキリストと結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている(ガラテヤ3:27)」

3)主イエスの所有するすべてを共有させていただく
  そのようにして主イエスに結ばれた「聖徒」らは、主イエスが受けておられる神の愛と祝福のすべてを共有させていただき、何の遠慮もなく、自分のものとして用いることができます。すべてが与えられているとの堂々たる確信をもって、今日も力強く歩むことができます。とりわけ、御父との「交わり」が赦されているゆえに、神に祈ることができるという特権が与えられていること、これこそ「聖徒の交わり」の醍醐味であり、私たちの根源的慰めです。私たちの罪深い祈りが、今や拒まれることなく、確実に神に聴かれているのです。
●「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。(ローマ8:32)」

 

 

㉕「聖徒の交わり」を信じるⅡ

 1)「聖徒の交わりを信じる」とは

「聖徒の交わり」とは第一に、父・子・聖霊の三位一体の神との垂直的交流 (交わり)です。その中心にあるのは、主イエス・キリストとの霊的結合です。聖なるキリストに強く結ばれることで、汚れた私たちが「聖なる者(聖徒)」とされるのです。この「聖なる者とされた人々」相互の、豊かな水平的な「交わり(交流)」の喜びもまた、「聖徒の交わり」です。それは、神の前で本当に自立した者たちが形成する、地上のどこにもない命の通った交わりです。

  聖書的な信仰とは決して個人的なものではなく、共同体の一員として「交わり」に生かされながら歩むものです。信仰の歩みというのは、兄弟姉妹と助け合い、 祈りあいながら、共に戦い共に成長していく道なのです。

  もちろん、私たちは罪人同士で、互いに互いを助けることはできません。他者の人生に介入できません。でも、神の恵みの導きがありますようにと、兄弟姉妹のために祈ります。自分のためにどれだけの祈りが重ねられてきたかを、いつも考えたいと思います。そしてこれからも私のために祈り続けてくれる人がいる。だから私たちもまた、誰かのために祈りたいのです。

 

3)同じ宝を共有させていただいている霊的共同体

  同じものを共有する(コイノネオー)ことが、交わり(コイノニア)です。キリスト者は、キリストの宝と賜物をみんな共有している聖徒の交わりです。すべての信徒は、神の子としての霊的性質を共有し、復活の主の命を共有します。神の愛を共有し、この愛に基づいて、神と隣人に対する愛を共有します。同じ信仰、同じ神認識、同じ義、同じ希望を共有します。同じ心、同じ思い、同じキリストの言葉を共有します。同じ人生の目的を共有します。

  この同じ性質、同じ命、同じ愛、同じ信仰、同じ希望、同じ目的に生きる 霊的倫理的共同体が聖徒の交わりであって、それ以外の何者でもありません。気の合う人の集まるクラブや同好会ではありません。年齢も階層も様々であり、健常者も障がい者も、地位ある人もそうでない人も、あらゆる国民と階層から、神がキリストにあって選ばれた信仰告白共同体なのです。

●「そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。(コロサイ3:11)」

 

 

㉖「罪の赦し」を信じる

 1)自分の罪を知り、赦しを求める

●カルヴァン「キリスト教綱要」冒頭の言葉

「人間にとって二つの認識が重要である。それは神を認識することとわれわれ自身を認識することである。我々は、自己の悲惨によってこそ神にある諸々の善を考えざるを得ないように迫られるのであり、また自分自身に対する不快感を抱き始めてからでなければ、神を真剣に渇望することはできないのである。」

  自分は神の赦しを必要としている罪人であるとの自覚は、キリスト教信仰に独特のものです。自分の罪を知ることと、神を知ることはつながっています。罪深さを知るほどに、神を求めずにはおれなくなり、神を知れば知るほどに、自分の罪深さを思い知らされます。すべてをご存じの神の目を意識するなら、後ろめたさを覚えさせられ、自分に嫌気がさします。でも、そうであるからこそ、そんな自分の罪が赦されているということの喜びが胸を熱くします。

 

2)罪赦されて生きる平安

●「ハイデルベルク問56:『罪のゆるし』について、あなたは何を信じていますか。 答:神が、キリストの償いのゆえに、わたしのすべての罪と、さらにわたしが生涯戦わなければならない罪深い性質をも、もはや覚えようとはなさらず、それどころか、恵みにより、キリストの義をわたしに与えて、わたしがもはや決して裁きにあうことのないようにしてくださる、ということです。」

  神はわたし以上に、わたしの罪をご存じです。これまでに犯したすべての罪も、罪深い本性も、これから犯す罪さえもすべてご存じの上で、「お前は生きていていい」と受け入れてくださいます。赦していただくよりありません。

●新約聖書 使徒言行録2:38(新p216)
「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。」

●新約聖書 エフェソ書1:4-7(新p352)

「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。 神がその愛する御子によって与えて下さった輝かしい恵みを、わたしたちが たたえるためです。わたしたちは、この御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」

 

 

㉗「体のよみがえり」を信じる

  

1)キリストと同じ栄光の身体への復活 

●「ハイデルベルク問57:『身体のよみがえり』は、あなたにどのような慰めを与えますか。 答:わたしの魂が、この生涯の後ただちに、頭なるキリストのもとへ迎え入れられる、というだけではなく、やがてわたしのこの体もまたキリストの御力によって引き起こされ、再びわたしの魂と結び合わされて、 キリストの栄光の御体と同じ形に変えられる、ということです。」 

●新約聖書 Ⅰコリント書15:42-45(新p352) 

「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」 

私たちは、キリストがよみがえられたように、自分もまたよみがえるのだと信じます。世の終わりにイエス様が再び来られる時に、この地上で与えられた肉体が根本から新しくされて、キリストと同じ栄光の体(=コリント書の言葉では「霊の体」)としてよみがえり、もう一切の痛みも悲しみもない神の国の住人として、永遠の命を生きることになる。これが私たちの究極的希望です。 

 

2)「わたしのこの体」の大切さ 

「わたしのこの体」が栄光の体に変えられるのであって、別人になるわけではないということも大切に覚えたいことです。自分の顔や身体が好きではないという方もいるかもしれません。でも、それは全部、私たちを創ってくださった神様が、それぞれに与えてくださった特別な賜物ですから、何一つ悪いものではないはずです。だから外面的には何も変わらないかもしれません。復活のイエス様の体に十字架の傷が残っていたのと同じように、私たちの復活の体にも、きっとたくさんの傷跡が残るのでしょう。罪と死と病との戦いに明け暮れた 人生において、私たちが味わった痛み、悲しみ、苦しみが、様々な傷跡となって、この体に刻まれています。でもそれらもすべて、神が与えてくださった 意味ある傷跡です。だから、残ります。その傷跡に刻まれた神の恵みを、たとえ今は見えなくても、復活の時には、きっと明らかに見えるようになります。今までコンプレックスでしかなかったものも、私たちの永遠の生を彩る大切な思い出の数々として、私たちに与えられ直す。それが復活の希望の時です。 

 

 

㉘「永遠の命」を信じる

  1)聖書の中心課題としての「永遠の命」

●新約聖書 ローマ書6:22-23(新p282)

「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」

●新約聖書 ヨハネによる福音書3:16(新p167)

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

罪の奴隷のまま死(=永遠の滅び)に至るか、神と共に生きる神の奴隷として 永遠の命に至るか、私たちにはこの2つのどちらかしかありません。そして神様は永遠の命へと招いておられます。永遠の命こそ、神がくださる最上の賜物です。

 

2)「永遠の命」の約束に生きる喜び

それはただ長く生きるというのではない。質的にまったく「新しい命」です。罪と死の呪縛から完全に解放された世界です。そこには、一切の労苦がありません。憂いがありません。罪が邪魔をしません。だから、もう誰も傷つかず、愛し合うことができます。自分のことも、ありのままに愛せるようになります。今まで見えなかった神の恵みが、明らかに見えます。神のすばらしさを、そのすばらしさのままに受け取って、賛美することができるのです!! 

それは今すでに、信じる者のうちに始まる「新しい命」であり、高次元のLifeです。しかしまたそれは同時に、万物の終わりの時に、神と共に生きることを願う者たちに約束されている希望のゴールです。その時、キリストが復活されたように、私たちも栄光の体に復活します。それは救いの完成であり、究極の慰め、死を超えた希望です。地上ではそれぞれ労苦多い歩みがあり、非業の死を遂げる者もいます。しかしキリスト者の最後は死ではない。死の向こうに明け染める命の世界があります。行き着くところは、永遠の命です。

それは必ず実現する神の約束であり、私たちはそういう完成に向かっている、というよりも、完成の希望によって引っ張られているような存在です。そういう意味で、神様から見ると、私たちは常に右肩上がりを続けて、希望へ希望へと向かっているのです。そのようにして、約束された「永遠の命」のすばらしさから、今の自分を見る。その時、生きる勇気が与えられるのです。