2020823日 エレミヤ9:24-25、ローマ2:25-29

「問題なのは中身です」

 

 説教題は説教の内容そのものを端的に表す、キャッチフレーズ的なところがあると思うが、説教題を間違えてしまったなと後悔する時がある。今日はまさにそう。「問題なのは中身です」、内容的にはその通り。割礼を受けているということそれ自体で完結するのではなくて、中身が問題だ。割礼というのは、神の民であることのしるしなのですけど、神の民としての中身が伴ってないなら、本末転倒・・。そういうことが書かれているのは間違いない。でも説教準備のためによく読んでいくと、29節の御言葉がどんどんと大きく聞こえてきた。「その誉れは人からではなく、神から来るのです」。ここにこそ今日聞くべき福音があると、先にお伝えしておこうと思う。今日皆さんと分かち合いたいのは「中身を伴う信仰を!!」というような訓話めいたお説教ではない。そうじゃなくて、確かなものなど何も持っていない私たちに、誉れを与えてくださる神様の恵みと憐れみをこそ分かち合いたいのです。

 

 改めて、今日の御言葉では割礼ということが問題になっているのは一目瞭然。これは、ユダヤ人だけでなくアラブ圏の人たちも行っている慣習ですが、生後八日目の赤ちゃんの男性器の包皮を切り取るのですね。神殿があった時代は祭司が行ったそうですが、今はふつうシナゴーグで専門家が行うそうです。割礼執行人というのは大変尊敬されていて、エルサレムの何々家の執行人に執行してもらいたいと、アメリカの大富豪のユダヤ人がチャーター機を回してよこしたりするなんて話もあるとか。

そもそも割礼とはどういうものかは、創世記17章が一番くわしい。そこに書かれているように、割礼とは神様との契約のしるし(創世記1711)。契約を結ぶということの一番分かりやすい例は結婚ですね。血もつながらない他人同士が、互いに永遠の愛を誓いあって、約束しあって契約を結ぶ。それと同じように、ユダヤ人、すなわちイスラエル民族も神様とのあいだに契約を結ばせていただいた。それはまず神様の方からの約束が先立つ。7節で、神様とアブラハムとの間で永遠の契約が立てられて、神が彼とその子孫の神となってあふれる祝福を約束してくださる。「何があっても、アブラハムとその子孫をわたしは見捨てない!!」との不変の確約。だからお前たちもまた、私との契約関係に真剣であってほしいと、私の戒めに生き、私から離れず歩んでくれと、神様が願われる。そういうプロポーズに応えて、神様との契約を結びましたということのしるしが、割礼というもの。いわばそれは、結婚指輪のようなもの。どんな時でも、神の不変の確約と、永遠の愛と恩寵を思い起こさせてくれる刻印。また他方で、特別な関係に入らせていただいた神の民としての存在の意義、責任を思い起こさせ、奮い立たせる刻印。

割礼というのは、そういう大変重要な宗教的意味合いを持つ慣習であって、神を知らぬ異邦人とユダヤ人を分ける明確な外見上のしるし。しかし、パウロはそこを問題にする。外見上のしるしがあればいいってものじゃない。神の民としての内実が伴ってないなら、つまり律法の要求するところの神とのまっすぐなお付き合いがなされていないならば、その割礼には意味がないという批判であることは明白。これは、繰り返し申していますように、ユダヤ人の歪んだ特権意識を砕くという大きな文脈に沿って言われていることです。先週は、特に律法の問題を巡る言行不一致の問題、理想としている姿と現実にやっていることが違うというみっともなさ、でもそのみっともなさが責められているというよりも、そのみっともなさを認めようとしないユダヤの人たちのかたくなさが責められていました。そして今週は、割礼です。ユダヤ人が民族のアイデンティティーとして誇りとしている部分に切り込む。

ただこういう批判は、パウロに始まったことではない。男性器の包皮を切り取るという形式だけ守っても仕方ない、そのこと自体に魔術的な力があるわけではない、大事なのは心だ、心の包皮を切り捨てよ、心に割礼を施せとは、申命記の昔から言われ続けていること。

ただパウロの場合はもう少し過激で手厳しい。それは、割礼を受けていない異邦人のほうがあなたたちよりもふさわしい、という話をするから。体には割礼を受けていなくても、その求められているところの契約の真剣さ、すなわち、誠実でまっすぐな神とのお付き合い、神と人への愛というところが満たされているならば、その人たちは「割礼を受けた者」すなわち神の民と見なされるのではないか。割礼の有無は関係ない、これは聖書の他のところでもパウロが言っていること(聖句表参照。Ⅰコリント719、ガラテヤ56615)。また、こういう主張の背景には、キリストにあって神との新しい契約に生きるキリストの教会こそ、真の割礼を受けた者たちであり、まことの神の民であるとの確信(フィリピ33、コロサイ211など)。

これはユダヤ人には耐えがたい批判。でもそうやって、ユダヤ人が誇りとしてきたこと、よりどころとしてきたこと、あるいは確かな保証だと思ってしがみついてきたことを、パウロはことごとく取り去ろうとする。神様との特別な関係を与えられているという、歪んだ特権意識を捨てよ、と。そうやって砕こうとするのは、福音へと導きたいからです。イエス・キリストのもとへとユダヤの人々を導きたいから。文脈を追っていけば、321からそういう福音が語られる。そこへ追い込む。そして330をご覧ください。「実に神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも、信仰によって義としてくださる」、ここのポイントは、割礼のある者もない者も、どちらも結局最後は同じだ、大事なのは信仰なんだ、ただ信仰によって義とされるのであって、それ以外ではないと教えているところ。割礼があるからといって、優遇されはしないし、逆に冷遇されもしない。信仰によって義とされるという点でみんな同じ。この真理へとユダヤの同胞たちを導きたい、これがパウロの願い。

ユダヤ人がこれまで神様との特別なお付き合いが与えられ、特別な神の民としての歴史を刻んできたのは事実。割礼という慣習はその象徴。でももはやそういうものにしがみついていても意味がない。むしろそうすることで、いよいよ御心から離れてしまう、歪んでしまう。全部まっさらなところから、もう一回神様とのお付き合いをやり直させていただくんだって言いたいのですね。これまでの歴史や伝統の中で身に帯びてしまった様々なこだわりを全部捨ててしまって、裸のままで神の前に出て、やり直させていただく。割礼を受けていることも、律法を持っているということも、もう何の役にも立たない。みんな裸です。肩書なんて役に立たない。確かなものなど何も持たない、小さく無力な罪人でしかない。けど、そういうものを義としてくださるキリストの前に、砕かれた姿で出るよりない。逆に言えば、ユダヤ人だから、選ばれた神の民だからと言って力むこともない。がんばる必要もない。一人の罪人として、裸で主の前に出ればいい。ただ信仰によって義とされる。

 

これは、私たちだってまったく同じです。こちら側で救いを確保しておけるような確かなものは何も持っていないし、持つ必要もない。割礼が保証にならないように、私たちの場合であれば、洗礼を受けているということがただちに救いの保証となっているわけではありません。信じてないのに洗礼を受けるというケースもある。

こちら側で神様のほうに差し出せるような確かなものは何もない。でもそれでいい。クリスチャンだからと力みかえる必要もない。先日のサマーデイズ、善いクリスチャンにならねば、中身が伴わねば神様から愛してもらえないと思っていたという高校生が意外に多くてびっくりした。そうあらねばならないと思ってる、でもそうあれない、あれそうもない。だから、逃げたくなる。神様との関係から逃げたくなる。でもそうじゃない。そんな風にかまえても仕方ない。いつだって僕らは何も持ってないのだから、一人の罪人として、裸で主の裁きの座に出るよりない。でもそこで、ただ信仰によって義とされる。神様の恵みによって受け入れていただく。

まずそのことが神様との誠実なお付き合いのはじめの一歩です。「大切なのは中身です」なんて説教題に言いましたが、中身をうんぬんする前に、まず神の民としてのスタート地点を間違えちゃいけない。ここからスタートすればいいのです。ここからスタートすれば、おのずと中身は神の民にふさわしく整えられていきます。それは聖霊の御業です。信仰だって、聖霊が起こしてくださらない限り持てない。すべて聖霊の導き。改めて29節を見てください。「文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ(まことの)割礼なのです。」わざわざ点々で区別されているように、ここで言われている霊とは神の霊、聖霊です。聖霊によらねば、心に割礼を施すことなどできません。私たちは、感謝と祈りをもってその導きを乞い求めること。

しばしば申し上げます。私たちの手は何も持っていない。でも何も持っていない手を組み合わせれば、祈ることができる。何かを握りしめたままでは、祈ることができない。ユダヤ人の割礼という誇りと同じように、私たちの側で握りしめているものが、私たちにもあるかもしれない。信仰者としてのこれまでの歩みに対する自負、ちゃんと聖書を読んできた、神様に喜ばれることをしてきた、ちゃんとよい奉仕ができた・・そういうものはどれもいいこと。信仰者としての自信につながる。でも、自信がついて固く強くなってしまった器より、たくさん砕かれひびわれた器のほうが、水がよくしみとおる。聖霊の注いでくださる命の水は、たくさん砕かれ、ひびわれて、傷ついて、そういう器にこそよくしみとおる。

 

最後の御言葉を見てください。「その誉れは人からではなく、神から来るのです」。ユダヤ人たちが誉れとしていたこと、割礼のしるし、律法をそらんじていること、そういったことは人からの称賛を受けるもの、共同体内部で通じるもの。私たちは人からほめられたい。重んじられたい。でもそういう人からの誉れよりも、本当にうれしいのは神が与えてくださる誉れです。パウロという人は、もし誇ろうと思うならいくらでも誇れるくらい、ユダヤ人共同体の中での誉れに満ちている人でした。みんなから羨望のまなざしで見られるエリート。でも、キリストを知った今は、そんなことは本当にどうでもよくなったというのですね。キリストが私を重んじてくださる、神からの誉れ、それで十分。

 最後にⅠコリント45をお開きください。p303。「誉れ」という語を追っていくと、ここに行き当たりました。「そのとき、おのおのは神からおほめに(称賛に)あずかります。」そのときとは、終わりの時、神が人間のすべてを明らかにされて、すべてを公正に裁かれる時、そのとき、それぞれの罪深い闇の部分も明らかにされて恥をかくでしょう。でも、それぞれが神からおほめにあずかるということも起こる。自分ではダメだダメだと思っていた信仰生活、でもよくやった忠実なしもべよとほめてくださる。ダメな奉仕だった、失敗だったと嘆いていたようなことも、神は喜んでくださる。苦手だったことを本当によくがんばった、たくさんの時間を費やしたことを私は知っているよと。

3節をご覧いただくと、「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。」この御言葉の背景には、パウロがコリント教会の人から誤解を受けて責められているということがある。でも、あなたたちからどれだけ裁かれても、私には関係ないんだ。人からの誉れなんて求めてない。そして、自分で自分を裁くこともしないという。自分で自分の確かさを確認する必要もない。そんなことはできないと、繰り返し申し上げてもきました。自分で自分の誉れを確かめなくていい。どうせ何も持っていない。でも、神がほめてくださる。すべてをご存じの神が、私のダメなところも誰よりもご存じの神が、でもその私をまるごと受け入れてくださって、他の誰もかけてくれない言葉で、自分自身でさえ思いつきもしなかった言葉で、ほめてくださいます。だから、自分で自分をダメだとかよかったとか言って裁く必要もないのです。

 

 

祈り。主よ、何も持たない手で祈ります。あなたの恵みでいっぱいに満たしてください。あなたが誉れをくださるから、力むことなく、傷つくことなく歩んでいきたい。