202096日 詩編1413,ローマ3918

「正しい者は一人もいない」

 

 今、長老方から勧められてティモシー・ケラー先生(アメリカ・リディーマー長老教会牧師、6000人の教会)の本を、折を見て読みかじっている。「放蕩する神」という本の中に、こういうエピソードが紹介されていた。「ある新聞が、公開質問状を出したことがありました。『この世界の何が間違っているのだろう』。カトリック作家のGKチェスタトンは、このような簡潔な返信を出したことで有名です。「記者さま、それは私です。敬具。GKチェスタトン」。これこそ、イエスのメッセージの的を得た人の姿勢です。」今日の御言葉を考えるにあたって、ぴったりのエピソードだと思う。

 今日の箇所では「正しい者はいない、一人もいない」と言われています。これは聖書が示している根本的な人間理解です。これは、聖書に教えられているところの神様の御心にぴったり心を沿わせて生きることのできる人間は誰一人いないということです。誰一人いないのですから、自分も例外ではありません。この言葉というのは、「世の中間違っている、病んでいる」といって世を憂いているだけの言葉ではない。そういう風に言う人はたくさんいるし、この世界の何が間違っているのかと考えだしたら、いくらでも出て来ると思う。でも、「間違っているのは、わたしなんだ」という、この視点なのですね。私もまた、神の御前では正しい者ではない。

神の御前で・・・、それをより具体的にイメージするなら、神が裁かれる厳しい審判の場に立たされた時に、わたしは耐えることができない。そういう自分の正しくなさということを、ちゃんと見つめるようにと聖書は教えます。お前は正しくないのだ、それが、神から突き付けられる人間理解、自己理解。でも、そういう正しくない自分を知って絶望したら、イエス様のもとに来なさい。そういうあなたをイエスは救ってくださる。そういうあなたが生かされるように、イエスが代わりに死んでくださった、それが聖書のメッセージ。

先に紹介した「放蕩する神」の中に、こんな印象深いフレーズもあった。「福音においては、すべての人がまちがっていて、すべての人が愛されています。」すべての人が間違っています。でもその正しくないすべての人が、愛されている。誰に?神によって、愛されている。この神に愛されるという愛を知らぬ限り、私たちは永遠にうつろで空しい旅人です。だから、この神の愛のもとに帰ってきなさい。これが救いの招きです。この招きが本当に身に染みるのは、自分が正しくない者だと、とことん思い知らされて、自分に絶望した時です。カルヴァンは「自分に嫌気がさす」という表現を使いました。皆さんはどうでしょうか。「正しい者はいない、一人もいない」と告げられる今日の言葉は、決してうれしくない言葉ばかり。でもこういう言葉を通して、神様の御前で自分としっかり向き合うように導かれているのだと思う。それは、福音を受け取るための準備。

 

改めて文脈を確認してみると、217からずっと続いてきたユダヤ人を追い詰める言葉の仕上げのようなところ。ユダヤ人は神に選ばれて特別なお付き合いの歴史を刻んできた神の民との自覚に生きていましたから、神を知らない異邦人を汚れていると蔑んでいました。しかし、上から見下すような真似はやめろ、その歪んだ特権意識を捨てなさいとパウロは言い続けてきた。そして今日のところで、ユダヤ人もギリシャ人もみんな罪の下にある、正しい者は一人もいない、みんな同じという結論に至るわけです。

みんな罪の下にある。この「罪」という言葉、実はこのローマ書で登場するのはこれが初めて。そしてここでのポイントは「罪の下」という表現です。これは実は珍しいもので、ここと714だけ。714は「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されている」。これは実は「罪の下に売られている」という言葉です。

まるで奴隷商人か何かのように「罪」が人格化されています。これはパウロの特徴で、罪というものを人格的にとらえていて、私たちを牛耳って操る恐るべき力をもった支配者として考えている。そのことは、この後の58章といったところで、はっきり表れてくるのですが、ここでも「罪の下」という言葉によって、そのことが表されている。そしてその背景にあるのは、「自分ではどうにもできないのだ・・・」という深い嘆きです。

罪というのは、自分の意志でどうこうなる問題じゃない。もちろん、意志によって止めなきゃいけないことはあります(誘惑に負けることの言い訳にしちゃいけない)。「どうにもできない」というのは、そういう次元のことじゃなくて、もっと根深い問題。自分ではよいことをしているつもりでも、知らず知らずにコントロールされていて、恐ろしい行動をしてしまうという罪深さです。しかも本人はその自分の行動の愚かさに気付かない。そういうことがあると、パウロは知っていた。彼自身、まさにそういう罪の力に支配されて、キリストの教会を迫害したという過去がある。本人はまったく正しいことをしているつもり。神の御心に沿いたいという熱心からのこと。

そういえば先週、説教の後で高橋長老がお伝えくださったのですが、「先生、ユダヤ人は神様に対して不誠実だったわけですけど、でも説教を聞いていたら、彼らは彼らなりに誠実であろうとしていたのだと思った」と言われた。本当にそうだと思う。誠実であろうとした、つまり神様に対してまっすぐでありたい、正しくありたいと願った。それは間違いないと思います。新約聖書ではユダヤ人はダメだと言われていますけど、その敬虔さや律法への忠実な取り組みは学ぶべきことたくさん。彼らは悪いことをしていたわけじゃない。正しいことをしたかった。していたつもりなのです。でも、正しいことをしているつもりなのに、やればやるほどおかしくなっていく。神の思いから離れていってしまう。それが罪の下にある者の悲しさなのです。ナザレのイエスを殺したことだって、正しいことをしたつもりだったのです。伝統的な教えを破壊して、自分はメシアだ、神の子だと名乗るような狂信者を野放しにしてはいけない、やつの存在は神への冒涜だと信じていたから、十字架で殺したのです。正しいことをしていたつもりで、人類最大の過ちを犯してしまった。それは、彼らが「罪の支配の下」にあったからです。

ユダヤの人たちは、残念ながらそのことに気付いていない。私たちを操り人形のように支配する罪という支配者の恐るべき力に気付いていない。でもパウロはその罪の支配を見つめている。支配されてどうにもならない人間の愚かさ、悲しさを見つめている。私たちにもそういう経験はあると思うのです。例えば、よかれと思って子どもに愛情をかけすぎて、過保護にしてしまう親の悲しさ・・。教会のためによかれと思っての誰かの熱心が思わぬ混乱を引き起こしたり・・。そういう風に、たとえ正しいことをしているつもりであっても、やればやるほどにおかしくなっていく、神の御心から離れていくような人間の営みの惨めさ、悲しさ、それが私たちが「罪の下にある」ということなんです。

 

そういう罪の支配の下に、みんないるんだ。ユダヤ人もギリシャ人も関係ない。クリスチャンもそうじゃなくても関係ない。みんなそうなんだ。みんな罪の支配のゆえに、ずれている。神の御心からずれている。それを言っているのが12節の言葉。「皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。一人もいない。」

これは詩編14篇の引用で、聖句表に掲載していますから後で確認しておいてください。ここで言っている「迷う」というのが聖書で3回しか用いられていない語です。「反れる、背く、遠ざかる、道を踏み外す」などの翻訳が可能です。これは、まっすぐな神様のものさしからズレている、ということです。それは、日本語でいうところの「迷い」ということとは別物です。「信念に基づく迷いのない決断」で、どんどん進んでいく人がいますよね。今話題のドラマの半沢直樹なんかもそうかもしれない。でもそうやって迷いなくブレなく進んでいっても、神の御心とぴったり同じではありえない。それが私たち人間の悲しさ。だから、正しいと思う方向に突き進むほどに、たくさんの人を傷つけ、恨みの連鎖の中にはまっていってしまう。そこまで描くとドラマとしては重すぎてつまらなくなるから視聴率はとれないでしょう。でも、それが人間です。

その後、13から18節はもう短くしかお話しできませんが、これも詩編やイザヤ書の言葉を自由に引用して組み合わせたもの。ここには、罪の支配にがんじがらめにされた人間の現実の姿が、旧約の言葉によって浮き彫りにされている。1314節に示されているのは、言葉の罪ですね。罪の支配というのは特に、私たちの言葉に現れます。その人は何の悪気もなく無邪気に放った言葉でも、相手は傷ついているということはとても多い。しかも、その言った本人は気付いていない。ハラスメントというのは大体そういうもの。よかれと思ってかけている言葉が、すべて毒と呪いとなって人を苦しめてしまう。何一つ間違いはない正論なのに、人を深く傷つける言葉というのもありますね。まさに私たちの言葉は、罪の支配の下にある。正しいことを言っているつもりでも、語れば語るほどおかしくなっていく。

 1517節。そういうわたしたちの「道=生き方、人生」は破壊と悲惨があり、平和=シャロームを知らない。本当にそうですね。いじめのない世界などはどこにもないし、醜い争いのない集団というのもありません。平和という完全な状態は、この地上のどこにもない。それが、罪の下にあるということです。

そして最後、18節「彼らの目には神への畏れがない」。神への畏れ、それは今日の御言葉に沿った言葉遣いで言い換えるならば、神はまったく正しいと信じつつ、自分は正しくありえないとわきまえるということ。正しい者は一人もいない、自分もまた神の御前に正しくありえない、まだ知らないことがたくさんあると本当によく理解し、それゆえにへりくだりをもって、絶えざる悔い改めをもって、自分を絶対視しないということです。でもなかなかそうはいかない。みんな自分が正しいとしたい。それすなわち、自分を神とするということ。それが、神への畏れがないということ。

そうじゃいけないですね。私はしばしば申し上げますが、信念と信仰は違います。信念は、自分が正しいと確信したことに向かって突き進み、どんな障害にも負けない心の強さです。それ自体すばらしいことだと思います。でもそれは、自分の絶対視に通じる危険があります。自分の絶対視、それは自分を神とすることです。信仰とはそうではない。自分が正しいと信じさせていただいたことを大切に保持しつつ、いつでも、神の示される新しい御言葉に対して心開いて、自分を変えていただく用意をしていることです。罪の支配の下にある私たちは、絶対に正しくはありえません。でもそういう私たちを、神が恵みによって導いてくださって、御心にふさわしく整えていってくださいます。だからいつでも、変えていただく用意をしている。その砕かれた姿こそ、神への畏れをもつ信仰者の姿勢なのです。

 

そうやって言いながらもそうできないから、自分でも嫌になりますが、それが罪の下にあるということですね。これは本当に悩ましいことなんです。だから祈りましょう。祈るしかないのです。この正しくない私をお救いください、罪の支配から解き放ってくださいと共に祈りましょう。